或る冬の話

 そのときたまたま手の離せなかったお母さんが、同じくたまたま存在を思いだした回覧板を、隣の家に届けるようにわたしに言った。当時まだまだ幼かったわたしは自分の遊ぶ時間が削られるのがすごくいやでぶうぶうごねたものだったが、お母さんの頬が引きつるのを見て慌てて家から飛びだした。インターホンを押して「回覧板入れときます」って言ってポストに挟んでおきなさいという言葉を頭の中で復唱しながら、短い手足をせかせかと動かす。それは早く終わらせて帰りたいという気持ちからくるものだったのだけれど、門を出たところでそういえば、とわたしは隣の家に対する興味を思いだした。
 というのも、隣の家は近所にある他の家となんだか雰囲気が違ってすごく謎めいていて、どんなひとが住んでるんだろうっていつも思っていたからだ。インターホン越しとはいえ住人の声が聞けるというのは回覧板を届ける報酬としてはおつりがくるほどのものだな、みたいなことを思ったのだ。そうとなればもう後にはわくわくしか残らないわけで、わたしは妙に長いお隣さん家の垣根の前を駆け抜けて、門の前に転がりでる。そして早速インターホンを探したのだが、それは全く見つからなかった。どうしよう、勝手に入ってしまってもいいのだろうか。よくわからないぞ。
 そうして家の前でうんうん唸っていたら、門の内側から物音が聞こえてきた。今のわたしであれば覗き込める高さの垣根も当時のわたしからしてみれば聳え立つ壁もいいとこで、中の様子なんて到底わかるはずもなく、その唐突な物音は門の前で立ち往生しているわたしを咎めるものなのだとびくびくしたのを覚えている。けれどもわたしは正等な理由をもってそこに立っていたわけだから、物怖じしつつもすみませんって声をかけたのだ。か細い子供の声に反応して垣根から顔を覗かせた男のひとは柔らかい声で返事をくれて、当時だいすきだった幼稚園の千代子先生みたいだなって思った。
 かいらんばんです、と力いっぱい伝えたらふにゃりと優しく笑ってわたしにすこし待つように言ってから、ゆうるりと門を開けてくれた。プリントが数枚挟まれた板を手渡しながらインターホンの位置がわからなくて戸惑ったのだということを話せば、それは門を入ったところにあるのだと教えてくれる。
 お手伝いして、えらいですね。随分低い位置にあるわたしの頭を同じ目線から撫ぜながら、お兄さんはお着物の袖をごそごそ漁ってそこから取りだしたものをわたしに手渡した。苺大福だった。わたしは思いがけず手にしたおやつにすっかり目が眩んでしまって、力いっぱいのお礼を残してさっさと辞去してしまったのである。折角謎に満ちていた家の門が開いていたというのに、満足に中を覗くこともなく終わってしまったわけだ。
 すっかりお兄さんに絆されてしまったわたしは、次の日になってお母さんに今日は回覧板ないのって聞いてみた。するとあんた昨日持っていったばかりでしょと言われてしまって、なんで回覧板はあんなにも頻度が少ないものかと憤慨したものであった。
 まあそんな感じで、隣の家の「お菓子のお兄さん」は滅多に関わらないながらもぶっちぎり好印象だったのである。




 三学期が始まって暫く経った。最近テストが一段落ついて通常授業が始まったばかりだ。いってきますと一声かけて外に出る。時間にはまだ余裕があるので慌しく走る必要はなかった。ローファーが地面を叩く感覚を楽しみながら歩き始めると、お隣さんの庭にひとがいるのが分かった。お菓子のお兄さんだ。わたしがまだまだ小さな頃からこのひとは見た目が全然変わらない。なんでこんなに若いんだろうって思いながら少し観察してみると、今日も寒いですね、なあんて傍らにいるわんちゃんに話しかけながら乾布摩擦をしている。趣味趣向とか日課とかはわりとおじいさんくさい感じがするんだけどなあ。
 とか何とか考えていたらお兄さんの視界に入っていたらしく、おはようございますとまあるい声をかけられる。元気よく朝の挨拶を返してから、わたしは気合を入れなおして学び舎へと向かった。はふんと息を吐きだせば白く染まってまわりに馴染む。清清しい朝だ。

*

 退屈な授業を淡々と消化していると放課後がやってくる。部活でもりもり扱かれれば、いつの間にか下校時間になっていた。冷えた足をハイソックスで覆って胴着を手提げかばんにしまいこむ。途中まで方向が同じ友達はこの前引っ越して反対方向になってしまったので、わたしは学校からの道のりを一人で歩くことになる。別にそれに関してはどうでもいいのだけれど、冬は暗くなるのが早いから、しんとした住宅地を通り抜けるときは色んな妄想が働いてしまうものだ。しかたない。
 そんな調子でてこてこ歩いていると家と学校の間にある公園に差し掛かる。夜でも球遊びができるように電気が煌々と辺りを照らしているので、前の道もその恩恵を受けて明るい。自分の影がみょーんと伸びて、背が高くなった風になるのが面白くて、無駄に足を上げてみたりしながら角を曲がった。今日のばんごはんはなんだろな。いつもより寒いからおでんか何かを仕込んでいるかもしれない。わたしはビーフシチューが食べたい気分だ。
 ごはんのことを考えてにまにましていたので最初は気付かなかったが、視界の端でちらりと影が動いたのが分かった。顔を上げてみると、道の隅っこの方で落ち着きのないひとがいる。明らかに困ってそうだったのだけれど、このひとどう見ても外国人だ。なんかヨーロッパっぽい顔してるもの。どうしよう。わたしの中の良心がこのままにするのはよくないと騒ぐのだけれど、外国語なんて知るはずない。なんだっけ、めいあいへるぷゆーとか聞けばいいんだっけ。それすらもあやふやだ。仮にそれで合っていたとして、そこからどうしたらいいんだい? 答えを聞けるひとがそばにいないので結局わたしになすすべなどなかった。と、ここまできたらもう善意など知らない。見てみぬフリをしようそうしよう。困った外国人なんかこの辺りにいるはずないよね。
 そう決めこんでわたしはできるだけ自然にその外国人と距離をとった。ヴェーヴェー唸っているのが聞こえるとちくちく心が痛んだが、心意気だけでひとを救えるなんて思ってはいけない。むりなものはむりだ。わたしには荷が勝ちすぎる。
 ――と、そう思っていたのにだ。気付いたらすぐ隣にまできていたそのひとに、わたしはがっしりと腕を捕まれていた。えっ何これどゆことこわい。何が何だかわからなくて、取り敢えず振り払おうとした。するとギリギリのところで耐えていた、といった外国人の表情が一気に破綻してぼろぼろと泣きだしてしまった。えええどうしたらいいんだよこの状況! 早口の外国語で何事かをまくしたてるそのひとに、泣きたいのはこっちのほうだと思った。すごく思った。けれど言っても通じないだろうし、ただただ泣いているひとにそんな強く言えるはずもなく、取り敢えず腕を開放してもらってめそめそ泣いてるそのひとを観察するしかなかった。手にスーパーの袋を持っているから、多分帰り道が分からないんだろうなあと思いつつ、でも買い物行くってことはここで暮らしてるってことじゃないのかな。なんで言葉通じないのと思ったりもした。仮にこれがおつかいとかだとしてもなんでそんなひとにおつかい任せるのだろう。それっておかしくないかな。何考えてんのってなもんだ。
 立ち往生していても何にもならないから、取り敢えず何か――身振り手振りでもいいから兎に角何かしらの方法で相互理解を図らねばまずい。わたしは早く帰ってお母さんの料理が食べたいのだ。なんで泣いてるのか聞いてみたら何かしら事態は動くだろうか。よし、がんばれわたし、奮起するのだ! ただ、このひとがぴーぴー泣きながら喋っていたのは明らかに英語ではなかったので、英語でいいのかどうかはわかんなかった。

「あー……わっとどぅーゆーくらぁい?」
「?」

 くっそー通じないじゃん! わたしが話しかけたことによって顔を上げた、というかわたしの方に目を合わせたおにいさんはごしごし涙を拭いながら、こてんと可愛らしく首をかしげた。まあ泣き止んだからよしとしよう。発音が悪いのは理解していたが、学校の英語は話せるようにならなくってほんとに意味がないなってことを実感した瞬間だった。それともおにいさんが英語をさっぱり知らなかったりするのだろうか。もしそうならちょっとどうなのって感じがする。世界共通語じゃなかったのか。とまあ悪態をつくのもこれくらいにしておこう。状況は改善されるどころか平行線もいいとこだ。ほんとどうしよう。困った。
 どう話しかけていいかもよくわからなくて、交番とかに行こうにもどう言って連れて行けばいいのかわからなくて、というかそもそも交番って方向全然違うから、この辺を彷徨ってるひとを連れて行ったら益々答えから遠ざかる気がした。残された手段とは何だろな。筆談とかかな。わたしの母音だらけの英語もどきでは通じない言葉も、もしかすると文字なら伝わるかもしれない。よし、光明が差してきたぞ。
 気を取りなおして制服の胸ポケットからちっちゃい手帳とボールペンを取りだす。落書きのページをめくってめくって、そしたら今度は別の声が降ってくる。なんだか渋い声だ。ゆっくりと顔を上げる。なんでゆっくりかというと怖かったからだ。さっきまで困っていたおにいさんはなんか嬉しそうな声をあげてそのひとに抱きついていて、抱きつかれているひとの腕はおにいさんを引き剥がそうとしていた。っていうか背高いな。なんかがっしりしてるし。そのまま顔を上げていって、それで……わたしは見たことをすごく後悔した。何だこのひと、ものすごく厳ついぞ。なんだこれぐ、軍人さん……? なんかやっぱりヨーロッパっぽい顔して、すごい巻き舌で、う、うわあああ怖いぞ。ものすごく怖い。どうしよう逃げなきゃまずいかな。なんか近寄ってきたぞ。すごく厳つい顔が何事かをわたしに向けて言いながら近づいてきたぞやばいんじゃないかこれ。このひとはおにいさんのボディーガードとかだったりするのだろうか。おにいさんは実はいいとこのボンボンで、わたしみたいな怪しいやつは葬られてしまったりとかするのかな。あああだめだ死亡フラグがみえてきた。

「うわあああごめんなさいいいいい」

 叫ぶのが早いか駆けだすのが早いか、わたしは一気にその場を離れた。後ろは振り返らない。振り返れない。振り返ったらもれなくわたしの心が死ぬ。恐怖で。うおおおおこんなところで死んでたまるかわたしはお母さんのばんごはんを食べるんだ……!


 無我夢中で走ったからかは知らないけど、後ろから追ってくるような足音が聞こえることはなく、わたしは転がるように家の中に飛び込んだ。買い物帰りの母親が玄関からわたしの奇行を凝視している。今買い物から帰ったばっかりかよ!
 あんたなにしてんの、なあんて言いながら、母はわたしに買い物袋をひとつキッチンの方へ持って入るように指示を出す。間延びした声で応えて母の背中を追っていくと、リビングに入ったところで母があっと声を上げた。

「お醤油買ってくるの忘れた」
「どんまい」
「ちょっとあんた買ってきて」
「えっ」
「ばんごはん食べないのとどっちがいいの?」
「えっえっ……うぐう……行く……」

 命からがら逃げだしてきたところなのにまた危険地帯に出ていくなんてどうかしてるぜ。さっきのひとたちがまだ近くをうろうろしてたらすごくいやだなあ。取り敢えずちょっとトイレ、とか色々言って引き伸ばし引き伸ばししてみたのだけれど、そんなことをしていても家に居座れる時間とは限られているもので、追いだされるようにしてわたしは玄関に立った。そろそろと扉を開けて外の様子を伺う。家の前の通りには誰もいなかった。
 こそこそと門を出ようとして、ぐるりと辺りを見回す。そして反射的に身を屈めた。先ほどの外国人たちがいたからである。なんでやねん。そしてそのひとたちはなんとお菓子のお兄さん家の門を潜って敷地内へ入っていってしまったのである。ガラガラと引き戸を開ける音がして妙にもったりした「ただいま」の声が聞こえてきたので、何だか手馴れた印象を受けた。相当気心が知れているにおいがする。くそう、わたしもお菓子のお兄さん家入ってみたいのに……じゃない! あのひと他の日本語通じないくせに「ただいま」は言えるのかよ! そもそもあのなんか怖いひとたちお菓子のお兄さんの知り合いなのかよ! 何だそれお兄さん家怖い! っていうかお菓子のお兄さんあの顔で(失礼)外国語喋れるのかよ! お兄さんすごい! とまあ、なんだか別の方向に一気にテンションが上がりきってしまって、わたしは一瞬何のために外に出たのかを忘れてしまった。ああ、そうだお醤油を買わなくちゃ。
 くるりと方向転換して、お兄さん家とは反対の方向へ歩きだす。あのひとたち結局何だったんだろう。恐らく解消されないままになるであろう謎に思いを馳せながら、わたしはお醤油に向けて駆けだしていったのであった。


2013.02.04
隣人のひらがな英語はイイカゲンです