或る日常

 くるりと手首を捻ると、小気味良い音をたてて鍵が開く。少し重い扉を開ければしんとして冷たい玄関が広がっていた。人の生活する音は聞こえない。

「おじゃまします」

 小さく呟いて再び施錠する。下駄箱の隣に置いてあるねこちゃんスリッパをはくと、迷いのない歩調でまっすぐに台所へ向かった。

*

 かちゃかちゃと食器同士が触れ合う音が広いリビングに響く。キッチンから臨めるそこにはやっぱり誰もいなかった。カップとお湯とを温めて、慣れた手つきでお茶の準備をする。戸棚からお菓子を選んでお皿に並べれば、あとは運ぶだけだった。
 コンロの火が消えているのを確認してからキッチンを後にして、ゆっくりゆっくり階段をのぼっていく。食器を落として割らないように、というよりはのんびりとした気性だから、というのが大きかった。

「露伴、入るよ」

 コンコンと軽く扉を叩いて、その手でノブを掴む。答えの返ってくる前に押し開けると、こちらには目もくれずに一心不乱に机に向かう姿があった。何事かを書き付ける音だけが部屋に響いている。

「あと五分」

 静かに扉を閉めて向き直る。相変わらず視線はなく、言葉だけが降ってきた。

「ん、わかった」

 部屋の端に置かれたミニテーブルにトレーを乗せると、ふかふかと柔らかいソファーに身体を埋めた。人間離れした動きでインクを散らす様子を視界に収め、徐にお茶を淹れはじめる。ほかほかと湯気が舞い、上品な匂いがその一角に立ち込めた。シュガーポットを引き寄せて、小さなスプーンに山盛り二杯半の砂糖を投下する。焦げたオレンジの中にさらさらと溶ける様子を眺めていれば、どうやら仕事を終えたらしい待ち人がこちらを見ていた。眉間に皺を寄せ、苦い調子で近づいてくる。

「ちょっと砂糖入れすぎじゃあないか?」
「そうかな?」

 軽い調子で返せば重たい溜め息をもらう羽目になったが、それ以上の言葉は飛んでこなかった。露伴はそのまま向かい側に腰掛ける。組んだ足からぽとりとくまさんスリッパが落ちた。

「今日はココナッツサブレ?」
「そうそう。この前でなくなったと思ってたんだけど、さっき戸棚見たら開けてないのあったから」
「君ほんとこれ好きだよな」
「うん。ありがとね」
「何の話だ?」
「こっちの話」

 穏やかな笑みを湛えてカップを傾ける。少し甘さが足りない気がして砂糖に手をのばすが、先ほどの苦い顔を思い出したのでその手はサブレを摘んで誤魔化すことにした。さくさくという音を楽しむように咀嚼する。

「いま何時だ?」

ぼんやりとした様子でそれを聞いていた露伴は、突然思い出したようにに尋ねる。仕事部屋に時計を置いていないのだ。ブラインドの隙間から見える空はもう大分深い色を浮かべていた。

「さっき見たら四時過ぎてたよ。二十五分くらいだったかな」
「じゃあ五時前くらいか」
「たぶんね」

 とは言ってもも時間を確認する手段を持っていなかったため、お茶の準備をしていた時に見たリビングの時計を思い起こす。納得したように相槌を打った露伴がゆるゆるとカップを傾けた。こくりと咽下するのを見て、今度はが露伴に尋ねた。

「それはそうと、露伴仕事あれで終わり?」
「ああ、まあそうだな」
「じゃあさ、買い物行かないか?」

 少し弾んだ調子で提案する。

「マフラーか?」

 数日前にどこかでなくしたとぼやいていた姿を思い出し、そのまま言葉にする。首回りに何かが当たっているのが苦手なくせに今は服で覆われているのが急に目につきはじめた。

「うん。あとシャンプーとかティッシュとかストックなくなってたから、それも」
「ふうん。今からか?」
「んー確かにちょっと微妙な時間かあ……じゃあ明日」
「いいぜ」

 僅かに難色の籠もった声に、外の様子を思い出す。じわりじわりと日の入りが遅くなってきたとは言ってもまだまだ寒さは厳しいし、もう日も暮れる。代替案を提示すればあっさりと快諾したので、は喜色を露わにした。

「やった。ついでにカフェ・ドゥ・マゴもいこ! 何かさ、今冬限定で変わったの出てるんだよ」
「すきだねえ」
「だって気になるじゃん」

 気のない返事だが決して否定するものではない。は店のおもてに出ていた看板を思い出した。

「美味しかったら今度作るよ」
「ああ」

 楽しみにしているとは言葉にせずに露伴はまた一口甘くない紅茶を飲み下した。柔らかい沈黙が部屋に染み渡り、食器の重なる音が木霊する。

「ところで

 居心地のいい間を飛び越えて、再び露伴が口を開いた。

「今日はどうするんだ?」
「あー晩食べたら帰ろうかな。何がいい?」

 僅かに考えるような仕草をとって、露伴が知りたかったことに答える。当たり前のように問いを返せば、主語のないそれにテンポ良く返事が寄越される。

「魚」
「端的すぎるだろ」

 空っぽになった露伴のカップに再度お茶を注ぐ。ありがとうと一言添えて、露伴は再びカップを持ち上げた。お皿に並べてあったサブレはいつの間にかなくなっている。最後の一枚が今まさにの口の中へと消えてゆくところだった。

「あっおれ豆乳鍋食べてみたい」
「豆乳鍋?」

 の口から聞くには珍しい単語に思わず露伴は訝しんだ。

「まろやかになって美味しいんだって」
「おまえ豆乳嫌いだろ」
「なんか出汁がきいてるから苦手でも大丈夫らしいんだ」

 幸せそうな表情を浮かべては鍋をつつく動作を見せる。彼は美味しい、若しくは美味しそうだと認識した食べ物に対して心底幸福な体を崩さない。

「へえ。作れるのかよ」
「んー調べながらなら……? でも豆乳鍋って魚入れるのかな」

 こてんと首を傾げながら露伴を見る。正解を期待している様子ではなかったが、疑問符のついたような発音だったので、露伴は取り敢えず自分の答えを返すことにした。

「僕は知らない」
「ぐぬぬ……」

 そうするとは漫画のようなわざとらしさで悔しさを表した。次いで少しばかり脳内会議を繰り広げたようだが、結局豆乳鍋に軍配は上がらなかったらしい。

「あんま冒険するのもあれだし、普通に焼こうか」

 無難な選択肢を選んで一気にお茶を飲み干した。ついでにテーブルに置いていたシュガーポットもお盆の上に戻す。

「なに?」
「鮭。塩とバター醤油どっちがいい?」
「塩焼き。米が食べたい」
「わかった。もう準備する?」

 それからはとんとん拍子に夕飯の図が完成していった。ほかほかの白米と、皮までカリッと焼いた鮭とくれば、あとは味噌汁だろうか。まるで朝食のようなメニューだが、食べたいものを食べるのは悪いことではない。野菜枠は何にしようかと考えながら、はミニテーブルの片付けに入った。

「もうちょっと後でいい」

 露伴は少し悩んでからそう言った。カップに三分の一ほど残っていたお茶を一口で煽り、片付けに協力する。

「おっけ。じゃあごはんだけ炊いとこう」
「じゃあ僕は君を観察しとく」
「はいはいどうぞ」

 くつくつと笑いながらお盆を持ち上げる。肘と足を使って扉を開ければ行儀が悪いと露伴に窘められたが、が気にかけた様子はなかった。ぴんと伸びた背中が薄暗い廊下で存在感を放っている。露伴は仕事机の近くに放置していたクロッキー帳を拾うと足早にその後ろ姿を追いかけた。電気が消えて無人になった仕事部屋はただ深く、日も暮れてすっかり暗くなった夜を吸い込みはじめていたが、人のいた気配だけはじんわりと残っている。


2013.01.23