はんのはなし

 大きな揺りかごのなかで、ゆらゆら、うとうと。まぶたを下ろした視界には何も映らないけれど、遠くからやってくる波のおとや鼻腔をくすぐる潮のにおいというのはむしろ普段よりもずっとつよく感じられた。頬を擽る芝生は暖かい。すこし離れたところでは船長と狙撃手のはしゃぐ声がしている。どうやらおやつに食べる魚を釣ろうとしているらしく、楽しげな船長の口からはまだ見ぬ食材のことがぽこぽこ語られていた。もうじき彼は大きな獲物を船に上げて、その元気な声で料理人の名前を叫ぶのだろう。想像に難くない光景にすこし口元を緩ませて、わたしは眠りの世界に身をなげた。
 しかし、鈍い大きなおとと同時にひどい地震が起こったことによって、それはいくらもしないうちに妨害されることになってしまう。いい気持ちでただよっていたところに土足で踏みこまれ、片足だけを掴んで引き出された心持ちだった。どうやら船長はわたしが想定していたよりもずっと大きなものを釣りあげたらしい。釣り上げたものに喜色を示す声を背景にして身体を起こせば、わたしの予想のなかに登場した人物がキッチンから出てきたところだった。その視線を追って緑の上に横たわる魚を視界に入れる。きらきらと太陽の光を返す鱗がきれいだった。

 食材を解体して引っこんだサンジくんを追いかけて、わたしも芝生の甲板を後にする。定位置になった場所に腰を下ろせば、カウンター越しに目が合った。
「なにつくるの?」
「あー、そうだな。まず饅頭作って、それからデザートか。なんか食いたいものでもあるのか?」
「お茶漬けとバター焼き」
「いいけどどっちかにしろ」
「じゃあバター焼き」
 そう言うとサンジくんは短く了承して、てきぱきと手を動かしはじめる。わたしはそれを見るのがすごくすきだった。だって、まるで魔法使いみたいなのだ。気づけば次々においしそうなものを生みだしているのだから目を離すことができない。
 薄く切り取った白身にお刺身もおいしそうだとおもっていたら、わたしの視線に気づいたのか、一切れをほいと口に放りこんできた。もう甘やかさないって言ってたのになあ、なんて考えながら咀嚼する。ねだるつもりはなかったのだけど、おいしいと満面の笑みを返せばサンジくんは満足そうに調理へ戻ったので、なんとも言えず嬉しい気持ちになった。
「鱗は使う?」
「そのつもりだが……分けてほしいのか?」
「うん。すこし」
「いいけど、後でな」
「ありがと、サンジくん」
 そしてまた会話が途切れる。包丁の刻むおとが耳に心地よい。先ほど捕まえ損ねた睡魔が緩やかに戻ってくるのを感じて、腕を枕にカウンターへつっぷしてみる。扉一枚隔てた向こう側から船長たちの声が聞こえるが、それも次第に遠のいていった。

*

 わたしはもともと食に対する執着が強いほうではなかった。引きこもって絵を描いていれば空腹も時間も忘れられたから、作る面倒臭さと空腹を天秤にかけて空腹が勝たない限り台所には寄りつかなかったし、最低限動けるくらいの食事を維持していればなにも問題はない。おいしい料理というのは作るものではなく食べるものだという意識があったものだから、なにか食べるにしてもキャベツに味噌をつけてお腹を膨らませたりしていた。両親は仕事でよその島へ行ったきり二年ほど留守にしていたので、たしなめるひとがいなかったのだ。サンジくんと出会ったのはそんな生活が三年目に突入しようかという初夏ぐらいだったようにおもう。三つ離れた通りのおばさんに頼まれてお店の看板を描いた帰りだった。
 一週間ぶりくらいに外へ出たわたしは、自分ではまっすぐ歩いているつもりが端から見るとなかなかに頼りない足取りをしていたらしい。後でサンジくんに聞いた話だ。そのときは確か冷蔵庫の中身がなくなっていたので水を流しこんでその場しのぎをしていた気がする。買い物に行くのが面倒だったのだ。絵の具を買うついででいいやと先延ばしをした結果、そうなってしまった。八百屋さんに寄ってそのまま食べられそうな野菜を物色するが、顔なじみになったおじさんに顔色の悪さを指摘され、さすがに食事をないがしろにしすぎたと反省していた。観念してなにか作るかと一人分の野菜をぶら下げて、でも面倒だなあとひとりごちながら通りに出た瞬間、なにかに勢いよくぶつかったのだ。反射的に謝るが、踏ん張りのきかなかった身体はたたらを踏んでそのまま後ろに傾く。これは尻餅をつくのだろうなと諦めていたら、落ち着いた声の謝罪と一緒に伸びてきた腕がわたしの腕を引いて支えてくれた。重ねてお礼を伝え、顔を上げる。眩しい金が目に入って、あっとおもった瞬間なぜか腹の虫が激しい自己主張をしていた。
「わっごめんなさい」
「メシ食ってねェのか」
 いたたまれなくて俯くと気づかうような声が降ってくる。お昼にはずれた時間だったからすこし心配してくれたみたいで、サンジくんはまだ小さいわたしの視点に合わせて膝をおった。
「それが昼か?」
「うん、マヨネーズつけて食べる」
「どんな食卓だ。親は?」
「仕事かな。たぶん」
「まさかいつもそんな食事だったりはしないよな」
「うん。味噌のときもあるし卵焼いたりもするよ」
 わたしのはっきりしない口ぶりにおもうところがあったのか、深刻そうな顔をするサンジくんに食事事情についてもうすこし聞かれる。わたしはもう会うこともないひとだとおもっていたから、とくに隠すこともなくあっさり吐いていった。今考えると初対面のひとに話すには必要以上に詳しいことまで話していたかもしれない。ひとりで放りだされて久しかったわたしには、ただ気にかけてくれる他人の存在が嬉しかったのだ。
 話を聞いたサンジくんはわたしが言葉を重ねるごとに眉間のしわを深めていき、ここ数日の暮らしが水分で賄われていたことを知ると、何かが切れたようだった。わたしが右手にぶらさげている袋が今の我が家の食材の全てだと把握した彼は中身を確認すると、わたしを仕入れに使うリアカーに乗せて肉屋に魚屋に飛び込んだ。自分の買い出しそっちのけでわたしの荷物を増やしていくサンジくんの勢いに圧倒され、完全にお財布役に徹していると、今度は家の場所を尋ねられる。危ないひとだとは思わなかったのでさくっと自宅の場所を教えると、もの言いたげな視線を送られた。うちに盗るものなんてひとつもないし、なによりこの狭い田舎町で親しげに話しかけられる買い物風景を眺めていると悪いひとだと思えなかったのだから仕方がない。お店の並ぶ通りを抜けてしばらく、左折したところにわたしの家はあった。
 鍵のかかっていない扉をあけて、サンジくんを招きいれる。台所の場所を聞かれたのですぐ隣の引き戸を指差すと、彼はわたしから荷物を引き取って直行した。後を追うとろくに使われなくなったそこで色々考え込んでいるサンジくんの姿が飛び込んでくる。シンクに置きっぱなしにしてあった小さな鍋を一瞥すると、他の調理器具を探しはじめた。
「下に入ってるよ」
 わたしがそう言えば、台所下の収納スペースから使われなくて埃をかぶった鍋が発掘される。我ながらこれはひどい。料理の前に掃除が必要そうだなとぼんやり見ていたら、彼も同じ結論に達したらしく、隣のかごに入っていた新品の金属たわしを片手に振り返った。
 わたしとサンジくんのファーストコンタクトとは、こういうものだったのである。

 サンジくんのごはんは今まで食べたどんな料理よりもおいしかった。すっかり胃袋が小さくなっていたわたしはそんなに大した量は食べられなかったのだけれど、タッパーに移して保管した料理を毎日すこしずつ食べすぎてしまうくらいには食事を楽しんでいた。
 初対面の相手に台所の掃除をさせて料理まで作ってもらったあの日、お代は受けとってもらえず、もう少しまともな食事をしろよという苦言を残して彼はうちを出た。丁寧にお礼を言って、わたしとしてはそこで一度縁が切れたつもりだった。そのうち余裕ができたらサンジくんが働いているというお店に行かないとなあ、といったくらいのもので、彼が再びうちにやってくるとはおもってもいなかったのだ。
 二度目はそれから一週間ほどしてから訪れた。サンジくんの作ってくれたご飯は数日前に完食している。ガラガラと車輪のおとがして、うちの前でぴたりと止まった。玄関を叩いて声がかけられる。
、いるか?」
 わたしはびっくりして慌てて席を立った。食卓テーブルは玄関からすぐ右の部屋にあるのだ。いつもは部屋に引きこもっているわたしだが、そのときはたまたま空腹を満たしに巣から出ていた。玄関の扉を開ければすこし前に見た顔がそこにはあった。
「サンジくん?」
「久しぶり」
 先週のわたしの惨状を浮かべて心配になったらしく、買い出しの帰りだというサンジくんは記憶を頼りにうちまで足を運んでくれたらしかった。彼は急に来たことを詫びたが、こうして訪ねてくれる誰かというのに馴染みがないわたしは、気にかけてくれるひとがいることが素直に嬉しかった。なにも考えずに招き入れて、先に部屋へ通す。わたしはそのとき自分が直前までなにをしていたのかをすっかり忘れていたのだ。まずいとおもったときにはもう遅い。食卓テーブルに鎮座するかじりかけのキュウリは既にサンジくんの視界に飛びこんでしまっていた。
「おい
「なんだろサンジくん」
「おれはもう少しまともな食事をしろといったよな」
「偏るとおもったから今日はちゃんとハムも食べた」
「そういう問題じゃねェ」
 それ以上言葉を重ねても無駄だとおもったのか彼は大きなため息をひとつ吐きだすと、わたしの食べかけのお皿と一緒に台所へ姿を消した。サンジくんがわたしに対して容赦しなくなったのはこの辺りからだったような気がする。買い出しの帰りにうちに寄るのが一連の流れに加わって、わたしは数日に一度は非常においしい食事にありつけるようになった。サンジくんは相変わらずお金を受け取ってはくれなかったので、さすがに申し訳なくなって肩たたき券を渡したこともあったけれど、それでも頑として台所にだけは立たなかった。死ななければそれでよかったのもあるが、親に対する反抗心があったのかもしれない。うちには体重計がなかったから、サンジくんは思い出した頃に抱え上げてはわたしの重さを測っているようだった。
 そんな生活が一年ほど続いたある日、結局わたしはサンジくんの働くバラティエには行くことなく、みんなと一緒に冒険の海へ出たのだ。

 サンジくんはまるで妹ができたみたいだと言ったらしい。ナミちゃんがこっそり教えてくれた。船長には厳しいサンジくんだったが、わたしが興味を示せばたいていのものは食べさせてくれた。なんというか、サンジくんのなかでわたしはいつまでも「粗食を繰り返す小さなこども」だったのだとおもう。しっかりと考えられた食事はバランスもよくて、わたしはふくふく育っていく。それでもサンジくんはわたしがちゃんと食べているのを確認するまで納得しなかった。随分と食に恵まれるようになって、けれどもわたしの船での仕事といえば大したことはなく、そもそも芸術家として乗りこんだものだから引きこもって絵を描かせてもらってばかりである。つまるところ、食べた量に対して運動量はさっぱり伴っていなかった。毎日顔を合わせていると変化にはなかなか気づけない。久しぶりにサンジくんが抱えあげたときにはすっかり肥え太ってしまった後だった。
「んっ!? 、お前なんか重くなったか?」
「えっうそ」
 サンジくんの言葉に慌てて自分でも確認するが、てのひらを見てみてもあまりわからない。入浴時を思い返してみれば、確かに顎のしたに肉がついていたかもしれない。鏡をそんなに見るわけではないので全く気づかなかった。
「食わせすぎたか……」
 ぽつりと呟くサンジくんの声が深刻な響きをしていて、わたしは急に不安な気持ちになる。過度に体重が増えれば動きも鈍るし健康にもよくない。わたしとしても、こんなことでみんなの足を引っ張りたくはなかった。おそるおそるサンジくんを見上げれば、彼のなかでも結論が出たようだ。
「とにかくこのままだとまずい。今日からお前は別メニューだ覚悟しろよ」
「うわああん」
 サンジくんの決定に嘆きを返したものの、どうにかしなくてはならないという気持ちはわたしにもある。けれども、その気持ちとごはんに対する欲求というのはまた別の話だった。そう、このころにはすっかり食に対する執着心というものが芽生えてしまっていたのだ。

 それからしばらくは窮屈なおもいをした。サンジくんは脅すように言ったけれども幸いなことに、極端に食事の楽しみが奪われることはなかった。こういうのはバランスが大事なんだと彼は笑う。身体を動かす時間が増えて、それまで遠巻きにしていたゾロとすこし話すようになった。
 朝ごはんの量が増える。わたしは起きてからしばらくはものが食べられないからこれにはすこし苦労したのだが、毎日繰り返せばじわじわ慣れることができた。近くには朝も夜も関係なくたくさん食べる船長がいたから、それを見ていると不思議とおなかに収まる気がしたのだ。けれども逆に、夜は苦行だった。
「サンジくんこれおいしいもうひとくち」
「これ以上は食うな!」
「ひどいよサンジくん差別だよ」
「おまえは野菜でも食ってろ」
「ぶああにんじんはきらいー! あっ……でもこれおいしい」
 軽いものしかサンジくんのお許しがでないわたしは、みんなとおなじものを食べることができなかった。ガッツリ重たいものを食べられないこと自体は瑣末なことだったが、とんでもなくおいしそうにしながら色んなものを口に運ぶ船長やゾロを見ていると羨ましくて仕方がなかった。とはいってもサンジくんもそこまで鬼ではない。ひとくち分けてほしいと言えば、たいていのものは分けてくれた。
 けれども限界は訪れる。
 そのときは随分と気落ちしていて、描きたいものも定まらず、ひどくもやもやした気持ちを抱えていた。本来関係ないことのはずなのに、相変わらず別に用意された食事を見て、三大欲求すらおもうように満たされないことがひどく悲しくなった。凍らせた豆腐をつぶしてそぼろと炒めて主食にするなどして、サンジくんがひと手間もふた手間もかけてわたしのごはんのことを考えてくれていたのは知っていたのに、なんだか色々耐えられなくなったのだ。
「サンジくんもうやだよわたしサンジくんのごはん食べれないなら死んだほうがましだよ手っ取り早く三枚に下ろしてよお……!」
「お、おい!?」
 八つ当たり以外のなんでもないのだけれど、これにはさすがにサンジくんも驚いたみたいで狼狽えていた。必死に諭してくれたサンジくんにはすごく迷惑をかけたとおもっている。わたしにだけ出された蕎麦をすすって不貞寝をしたら次の日には随分とすっきりした気持ちで目を覚ましたので、いま振り返るとすごく恥ずかしい。


 それから数日して、久しぶりにサンジくんに抱えられる。たかいたかいをされるような歳でもないのだけど、もうすっかり慣れてしまった。あしをぶらぶらと遊ばせていれば、まあこんなもんか、と呟いた。その言葉に喜びを隠せない。
「ほんとに? もうみんなと同じもの食べていい?」
「いいけどもう甘やかさねェからな」
 このとき、よいこのお返事をしたわたしは、すごくいい笑顔をしていたのではないかとおもう。

*

「おい起きろ」
 聞き慣れた声を耳が拾う。カウンターに伏せていた顔を上げれば先ほどまで見ていたものとは違うキッチンが目に映った。ひさしぶりのメリー号だったなあ、なんてすこし感慨に耽ってみる。
「サンジくんそれなに?」
 おたまで掬いあげたものを指して首を傾げる。興味津々のわたしに、小皿がひとつ渡された。謎の球体には餡がかかっていた。
「ん? なにこれおいしい。にんじん?」
「正解」
 サンジくんはことあるごとににんじんを料理に混ぜてくる。というのも、わたしがすごく苦手にしていたからだ。後からくるにおいがいやで食べるのを避けていたのだけど、サンジくんが使うとなんだかおいしいものに変身するのだからすごい。おかげで随分と好き嫌いが減った。
「お前今日はどうすんだ?」
「フランキーの手伝いやったらアトリエこもる。ヒッキー」
「進んでるのか?」
「進んでたらここにいないー!」
 サンジくんが言うのはわたしがいま描いている絵の話だ。わたしは行き詰まるとここにくる。鍋のふたをあけるおと、スープの煮立つおと、野菜の皮をむくおと。サンジくんのいるキッチンは、記憶のなかのお母さんみたいに暖かい。
「今日のデザートだ」
「わあいありがとサンジくん!!」
 原材料がさっきの魚だなんておもえないくらいきれいに飾られた小皿が差し出された。隣には知らない間にざっくりと盛られたお皿もいくらか並べられている。わたしはそれらをテーブルへ運ぶと、小皿をお盆に乗せてナミちゃんやロビンねえのとこへ向かうサンジくんを見送った。甲板からはずるいと叫ぶ船長たちの声と、ダイニングにあるから勝手に食ってろと返す声とが聞こえる。ばたばたと騒がしい足おとが近づいてきた。
!」
「みんなのそこにあるよ」
 扉を壊す勢いで入ってきた船長に思わず笑みがこぼれる。並べられたお皿を指差してそう言えば、待ち切れないと言わんばかりに文字通り伸びてきた腕がそれらを掻っ攫っていく。
サンジくんの料理はほんとにすごいのだ。
「悩んでる暇もありゃしない」
Dreamer's Friendship Party! 2 様に提出
2014.12.03 / 加筆修正:2017.10.05