咲けば散ると知っていた

 灰色の空。覆う雲は分厚く、切れ間から覗く光が彼女を避けるように地面を照らす。下ろしたてのパンプスはつやつやと輝いているのに、道を行く彼女はひどく憂鬱そうな面持ちでアスファルトを見つめている。
 原因は分かっていた。幹事と仲が良かったが故に、今日これから向かう集まりの出席者を、先に知ってしまったことが問題だった。もはや数年ぶりに再会する級友たちへ砕く心はなく、咲く前に散ってしまった最初で最後の恋を、ただ苦い気持ちで噛み締めている。

 何がきっかけだったかは分からないが、この同窓会にも似た会合が不定期に開催されるようになったのはそう遠い話ではない。直近の五年間で二度もあれば、十分すぎる頻度だろう。彼女はその度に期待していた。それをたった二回と言うひとも勿論いるだろう。けれど、彼女にとっては長い五年だった。彼女にとっては、多い二回だった。
 そもそもの始まりは高校生にまで遡る。一年生の夏。丁度十四年前のことだ。あのときはまだ若く、目の前にはたくさんの希望が広がっていた。記憶はとうに朧げで、彼をすきになった理由なんて何一つ覚えてはいない。目つきは鋭く、黙っていると少しひとを萎縮させる雰囲気を持っていた。けれど穏やかな気性の彼はひとと話しているとき目元を和らげていることが多かったし、第一印象とは裏腹に、気さくで話しかけやすい人物でもあった。
 ただひとつ、なにか特別なことがあったのだとしたら、美術部の活動で学校の敷地内至る所へ赴いては写生を繰り返す彼女の元に、彼が時折現れては他愛のない話をしていったことだろうか。それは彼が幼馴染の用事が終わるのを待つ間、そのほんの短い時間でしかなかったのだけれど。
 入道雲を背負って屈託のない笑みを浮かべる彼は、いつの日か彼女のために咲いた向日葵のように美しい思い出になった。ただそのときに覚えた激しい感情の波打つさまを、後生大事に抱え込んでいるだけなのである。
 数字にしてみれば人生のたった十分の一。けれど、決して短くはない三年間を、そんな風に過ごしてきた。
 彼女は終ぞ、その感情を言葉にすることはなかった。そうしてちゃんと終わらせることのできなかった初恋は、いまも尚彼女の中で燻り続けている。
 踏み出せなかった当時の自分自身を、今更糾弾するつもりはない。道もなく、引き返すこともできない今が続くのを、あとどれだけ繰り返せば良いのだろう。どんな縁を辿っても、彼と彼の幼馴染だけは連絡がとれないのだと聞いたとき、彼女はいつかこの想いに殺されるのだろうと悟ったのだ。

   ◇

 幼馴染が、大切にしまいこんでいた箱がある。他人との距離を測るのが上手な彼にしては、随分な力技に出たものだと思って、なんとなく印象に残っていた。
「告白しないのか?」
「え、なんで?」
「好きなんだろ。彼女のこと」
「すきだけど」
 当時あまりに不思議だったので、直接尋ねたことがある。彼はそれに対し自分の幼馴染が言った言葉の因果関係が理解できなかったらしく、きょとんとした様子で首を傾げていた。特別な存在になりたいとは思わないのかと続けてみれば、もう既に特別だからと返ってくる。始めなければ終わらせずにすむからいいんだと彼は笑った。
 彼は恋というものが、あぶくのようにいつか消えてなくなってしまうものだと思っているようだった。その気持ちに名前をつけて、それに相応しい関係の枠組みに足を踏み入れることを、ただ漠然と恐れていた。
 彼はその抱え込んだ感情を、ほんのひとかけらも周囲に悟らせず、上手いことコントロールしているようだった。降谷がそれに気づくことができたのは一日の長があったからだ。ふとした瞬間の眼差しも声色も、驚くほど素直に好意を伝えるのに、彼らは何も変わらなかった。
 振り返ってみればあまりにも短い青春の日々。彼らの時間は綺麗に装飾された額縁のなかに収まっていて、それはいつまでも大切に飾られるものであるようだった。結局彼らは連絡先すら交換せずに、お互いどこか知らない場所で大人になっていったのだ。
 ずっと過去にできなかった幼馴染のことを思い出す。閉じ込めていた記憶を解きながら、ようやくそれが許されたことに安堵した。
 景光がこの世を去ってから、六年目の夏のことだった。