境界線の向こう側

 昔から目がとてもよく見えた。あまりに鮮明に世界を映すものだから、それが誰にとっても当たり前なのだと思っていた。
 彼女には幼馴染みがいた。見えないものを見つめていても異端視せずに、ただ彼女の個性として受け入れてくれる存在がふたつもあった。彼女はそれだけで生きた人間に対して絶望せずにいられたし、変に歪まずにいられたのではないかと思っている。
 年頃になって周囲が性別を意識しはじめたときですら、彼らは三人ずっと一緒だった。距離を置いてはもう二度と戻れないことを、皆一様に感じていたからである。彼女の小さな世界に於いて、きちんと息をしている相手は、両親と幼馴染たちしか存在しないのだ。
 そんな彼らも大人になっては同じ道を歩み続けることは難しい。警察官になると言った幼馴染みを見送ってはや数年、次第に音信は途絶え、今はもう生死すら定かではない。会いたい気持ちは絶えずそこにあったけれど、それを解消する手段はなひとつ持ち合わせていない。心の深層にしまいこんだその名前を、ぽつりと舌に乗せてみる。
「ヒロ、レイ、会いたいよ」
 声に出すと余計に寂しさが募った。彼女以外誰もいない部屋に虚しく響くばかりのそれを、再度飲み込もうと息を吐く。けれど彼女はそこで、先程までとは周囲を満たす空気の全く違うことを感じとる。
「呼んだか?」
 ないはずの返事を耳が拾った。ひどく落ち着いた声は、朧げだった輪郭をくっきりと浮かび上がらせた。頭の後ろから聞こえたそれに、勢いよく振り返る。目に入ったのは懐かしい、幼馴染の片割れだった。記憶の中の彼よりも少し大人になっている。昔はなかった顎髭が、空白の期間を思わせる。
「ヒロ……?」
「久しぶり。元気だったか?」
 人懐っこい笑みとともに向けられた挨拶はとても軽やかだった。ほんの数日会わなかっただけのような錯覚を抱くほどに。
 彼女は戸惑った。一度に多くの感情が押し寄せて、何から発露すべきか分からなかった。
「わたしは元気だったよ」
 ヒロはどうだったの、と続けようとして言葉に詰まる。何故、ここにずっと連絡の取れなかった幼馴染がいるのだろう。今まで誰もいなかったのに、急に背後に現れたのだろう。彼女に見えている幼馴染は、足があるし、透けてもいない。もうほとんど答えは出ていたけれど、確かめるためにじっと目を凝らす。
「ヒロは……」
 言葉を探しながら呟けば、いつも通りの微笑みが、ゆらりと形を失った。不自然に向こう側の景色を見せた幼馴染に対して、かける言葉が見つからない。

「ヒロは、しんでしまったんだね」