白白明けはまだ遠く

 数年前に行方を眩ませた恋人を、かつて一緒に過ごしたこの部屋で、できることならその思い出と共にずっと待っていたかった。
 そろそろ過去にするべきなのかもしれない。彼は時折考える。けれどその度に、脳裡に浮かぶ恋人の姿が、この恋を終わりにすることを躊躇わせる。それがひどく困難であることを突きつけて、結局彼は心の整理をつけられない儘、また明日も戻らぬ相手を想っている。
 恋人の家は別にあったが、半同棲と言っても差し支えないくらいの頻度で寝食を共にしていた。長年の夢だった警察官という職を諸事情で辞してしまった後、思えばあれが、恋人にとっての準備期間であったのかもしれない。そうして迎えた最後の朝も、驚くほどいつも通りだった。いってらっしゃい、大好きだよ、なんて甘い言葉に溶かされて、朗らかな笑顔に見送られながら家を出る。仕事を終え、半日の後に帰ってきたら、もうそこに彼の痕跡は残されていなかったのだ。
 何も言わずに行方を眩ませた恋人の考えは、実は未だに理解できていない。幸せそうであったのは表面的なもので、心の底では不義を働くほどに憎んでいたのだろうか。それとも別れがつらくて言葉にすることはできなかったのだろうか。推測の域を出ないそれらに明確な回答が与えられることはなく、もう何年も恋人の影に捕われ続けている。
「会いたいよ、景光」
 がらんどうの部屋に、溢れた心がこだまする。
 明日になれば、この部屋はもう過去のものになってしまうのだ。

 仕事の都合で引っ越した先は米花町だった。治安面での心配は尽きないが、新しい生活が彼の足を未来に向けてくれることを、彼自身が期待していた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
 小腹を満たすために適当な喫茶店に足を運ぶ。店員の声に応えるために俯いていた顔を上げたとき、ずっと止まっていた時計の針が、重たい音と共に動き出そうとするのを感じた。
「え、」
 思わず漏れ出た声は相手に届いたようだった。同じように目を見開いた店員は、けれど瞬きの間にはその動揺を見事に隠しきってしまう。まるで今の反応が、幻だったかのように。
「零くん? 零くんだよね?」
「ええと、人違いではないでしょうか」
「ねえ零くん、景光は」
「お客様、落ち着いてください。ご期待に沿えずすみませんが、僕は安室透といいます」
 恋人が姿を消したその少し後、追いかけるように存在を消した彼の親友。もし何か事情を知るとしたら、それは彼の他にはあり得ない。仄かに抱いた希望は一瞬にして摘み取られ、通されたカウンターで息を詰める。数年ぶりに影を濃くした恋人の痕跡は、彼が掴み取る前にすり抜けていってしまった。

   ◇

 いつの日か、景光と一緒に短い逃避行をしたことがある。社会人一年目の冬。一つ下の彼はそのとき大学四年生だった。新潟の海が見える宿まで新幹線と電車を乗り継いで行き、寒い寒いとはしゃぎながら、手を絡ませて荒れ果てた砂浜を並んで歩いた。
 季節外れの海には他には誰もいなかった。寄る波が足を掬えば芯から凍えていくのがわかる。けれどその温度が、二人には心地よかった。
 地元だとこんな風に羽は伸ばせない。冷たい水辺は世界の果てのように感じられて、あの瞬間、彼らは何よりも自由だった。
「ねえ、景光」
「ん?」
「きみが落ち着いたらさ、またこういうことしようよ」
「ああ、いいなそれ」
 繋いだ手に口付けて景光が笑う。彼と未来の約束をしたのは、これが最後だった。