あなたはわたしの苦痛を和らげるひと

「スコッチ、来て」
 人気のない地下の駐車場で、一仕事を終えたばかりの相手を呼びつける。スコットランド産のウイスキーと同じ音で称される彼は、彼と同じようにウイスキーの名前を冠する他の二人と一緒に、三人一組で動くことが多い。物騒な持ち物をそうと分からぬように肩に担ぎ、報告の為にやってきたトリオから一通りの話を聞いたところで、次にとった行動がそれだった。
 彼女もまた所属する組織から酒の名を与えられている者であり、三人にとっては先輩にあたる存在だった。彼女の所業は噂話として周知されている。荒事にあまり向かない見た目をしていて、得意分野は言ってしまえばただの弱い者いじめだ。当然ウイスキーたちもそのことは聞き及んでいた。彼女はとても落ち着いた様子で無抵抗の人間を嬲る。
 呼ばれた当人は至極冷静に彼女の言葉に頷いた。だが、他の二人の反応はそうではない。ぎょっとした様子で彼女とスコッチを見比べる。感情の読めない彼女の口ぶりから、気の合う同業者が理不尽に痛めつけられる可能性を察知したのだろう。スコッチと彼女とでは純粋な力の差は歴然であるが、彼女は自らの不利を、ものともしない。
「待ってください」
 特にスコッチと仲が良いらしいバーボンの声が、踵を返した彼女の背中を追いかけた。しかし、平坦な声も変わらない表情も、再び彼らに向けられることはない。彼女は尚も何か言いたげなバーボンに対して無反応を決め込むと、そのままコンクリートに覆われた薄暗い空間から、さっさと消え去ってしまった。
「バーボン、大丈夫だから」
 じゃあまたな。そう言ってスコッチは意識を切り替える。唇をきゅっと引き結んで、駐車場を出た先にある、彼女の姿を追いかけた。

 短い階段を上った先には広がっていたのは、綺麗なホテルのエントランスだった。中央にある大きな装飾の前で、彼女はスコッチを待っている。
「すまない、待たせた」
「いい」
 小さく首を振った彼女には相変わらず表情がなかったが、近づけばぴりぴりと肌が粟立つのを感じた。細長い指がきつく皺が寄るほどに袖口を握りしめるのを眺めながら、引かれるままに彼女の後を着いて歩く。
 ああ、やっぱりいつものだな。スコッチは考える。他の二人は知らないことであったが、こうして適当な場所に連れ込まれるのは、実はこれが初めてではない。彼女によって用意されていた部屋の、鍵のかかる音がする。袖を掴んでいた指が、そのままスコッチの上着を剥いだ。
「埃っぽい。はやくお風呂入って」
「分かったから、ちょっと待てって」
 さっさと衣服を脱がせようとする手を制止して、さっさとバスルームに移動してお湯を浴びる。その間に彼女は持ち込んでいた荷物をベッドやテーブルに広げて待っていた。色とりどりの布の海を見つめながら、彼女はスコッチの顔を思い浮かべる。

 ほんの僅かな時間の後、スコッチがさっぱりとした様子で浴室から出てきた。どうやらこだわりがあるらしい顎髭は、彼にとっては残念なことに綺麗に剃り落とされている。そんな風に過去から学んだスコッチを見て、彼女は満足そうに頷いた。次いでベッドの上に二つまで絞られた衣服を彼に当てて思考する。
「今日のスコッチは、桜の妖精にする」
「わかった」
 シャワーを浴びている間に彼女が用意したハンドボウルに指先を浸け、ふやかしている間に顔を作る。顔の上を行き来する筆の感覚には、この行為が何度目になっても慣れることがない。真剣にスコッチの顔を見つめる彼女は、それまでの能面具合が嘘だったかのように多彩な感情を露わにしている。たっぷりと時間をかけて、彼は爪の先まで磨かれていく。
「ぱんつは履いてるね。じゃあブラつけて。これ着て」
 ぎこちない手つきで胸を盛り、白を基調に花弁があしらわれたマーメイドラインのワンピースに腕を通す。ひらひらと広がる袖はとても肌触りが良い。さらさらと流れるホワイトカラーのロングウィッグが装備されると、スコッチはもう、全く別人になった気分だった。
「世界中の誰よりも美しいね、スコッチ」
 そうして出来上がった桜の妖精を正面から眺めると、彼女は心底幸せそうに微笑んだ。

 良くない傾向だ。
 場所を客室からバーに移して、自分の顔を肴にお酒を楽しむ彼女の様子を伺いながら、彼は思う。何といっても彼は潜入捜査をしている身で、彼女は犯罪組織の幹部である。普段の振る舞いでは心の在り処を疑うような場面さえある。彼女は誰に対しても冷たい態度を崩さないし、特に男性と見れば表面化した温度はさらに下がる。そんな彼女が、唯一スコッチにだけは態度を和らげる。そして、そんな風に近づいてくる彼女のことを、彼は無下に扱うことができなかった。
 当然、彼自身懐かれている自覚はあった。そして、その理由にも思い当たるものがある。あの夜は男性の装いをしていた。
「どうしたの?」
「いや、飽きないのかと思って」
「どうして? こんなにすきなのに」
 まっすぐに褒める彼女へ何と返せばいいかが分からない。彼は曖昧にお礼を言うと、静かに涙を零しながらグラスを傾けていた彼女の姿を思い出す。あのときもこんな風にカウンターに並んで座っていた。彼女は今と同じように、ラスティネイルを飲んでいた。

 はじめは打算しかなかった。見るからに弱っている心に付け込めば、探れる情報もあるかもしれないと考えた。だからあの日、彼は彼女に近づいたし、絆すために心を砕いた。
 彼女は彼が同じ組織の人間であることに気づいていないようだった。会話を拒むように酒を嗜む彼女の隣で、ただ静かに杯を傾ける。どうやらその行動は彼女にとっては正解のようだった。暫くの間そうしていれば、やがて行きずりの他人であるならばと考えを改めたのか、徐に彼女が口を開く。短く纏めれば、付き合っていた筈の恋人に彼氏を紹介されたという話だった。
「いつの間にか彼女の中で、わたしは勝手に仲のいい友達にされていた」
 わたしにはあの子しかいなかったのに、と嘆く彼女は突然失った恋に傷ついていた。
 スコッチは彼女の話をただ黙って聞きながら、けれど正直なところでは、表に出てこようとする驚きを隠すのに必死だった。彼女が誰かに恋をすることができる人間とは思わなかったのだ。そしてそれによって、こんな風に感情を発露する面があることも、また想像もつかなかった。まるっきり無害な普通の女性のようで、それが組織の一員としての姿とは一切結びつかなくて、困惑する。
 ふと、彼女の動きが止まった。どうかしただろうかと顔ごと振り向いて様子を伺えば、ひどくあどけない表情でスコッチのことを目に映していた。
「あなた、とってもきれいだね」
 壊れ物に触れるような柔らかさで、彼女の指先が彼の頰を撫でる。
「わたしのこと、慰めてよ」

 彼女は危うい言動でスコッチを釣り上げたが、それは彼女自身が望まない事態に陥っても十分対処が可能であると判断したためである。これが彼と彼女でなければ、加害者と被害者ができあがっていたかもしれない。つまりこのときの誘い文句が現在に至る扉であり、心ゆくまで自分好みにスコッチを装飾した彼女は、あの後相手が同じ組織の名前持ちであることを知ると、気まぐれに呼び出しては彼に異性装を施すようになったのだ。
 スコッチはこれについて、唯一の仲間であるバーボンにすら、正しく報告できてはいない。
「スコッチが女のひとだったらよかったのに」
「ハハ……そしたら多分こんな風に出会ってないよ」
 グラスの底にうっすら残っていた錆色の液体を一気に煽る。それを見て、今日はここでおしまいなのだな、と彼は悟った。メニューを指して次を尋ねるが、案の定彼女は首を横に振って二杯目を辞した。
 彼女は鬱憤がたまってどうしようもなくなると度々彼を呼び出す。彼の顔がたまらなくすきだった。自身を突き放せない優しさもまた同様である。彼が理想の女性であるうちは、ただ幸福だけを享受することができた。

 この時間が、すきだった。