ゆめのあとには

 瓦礫の迫る中、先輩の俺を呼ぶ声が耳に残っている。

 目が醒める。そこで初めて、自分が今まで眠っていたことに気づいた。先ほどまでもっと別な場所にいたように思ったが、それ以上の違和感は覚えなかった。
 ふと枕元に視線を落とせば、二つ折りの携帯電話がチカチカと光っている。メールの通知だ。友人からの、朝イチでノートを写させてほしいというお願いだった。俺は適当に了承の返事を返して、そして壁に干してあった制服に袖を通した。
 学校に到着するとなんとなく懐かしい気持ちになった。下駄箱でメールの相手にばったり出会い、学生らしく小テストの話などをしながら階段を上がる。途中、踊り場の隅で駄弁っているふたりに目がいって、じっと見てしまった。まず、上靴の色が違う。先輩だ。少しずつ視界が上に動いていく。学年の枠を飛び越えてよく目立つ、ひとつ下の俺たちの間でも、たびたび話題に上るふたり。
「よっ!」
 そう長いこと観察していた筈ではなかったのだが、先輩の片割れが俺に気づいた。そしてとても軽い調子の挨拶が降ってくる。はて、俺は彼らとこんな風に気安く言葉を交わすような関係だっただろうか。先輩が自分を認識していたことが不思議だった。けれど同時に、何故不思議に感じるのかもよくわからないなと思う。無難な挨拶を返して、再び階段を上った。

 その先に特別語るような出来事は存在しなかった。俺はそのまま高校を卒業して、大学へと進学し、やがて就職の時期を迎える。
 俺が選んだのは警察官になる道だった。そう、俺は警察官であったのだ。用意された課程を順当に消化して、そしてその先に待っていたのは今潜っている潜入捜査官と接触をする役割だった。先輩の風見さんにあれこれ教わりながら、綿密に準備を進めていく。
 初めの頃は順調であった。大きなミスもなく、先輩とのコミュニケーションも良好だった。
 そう、先輩。ここでいう先輩というのは風見さんのことではない。いつの日か親しげに視線を交わした彼のことである。就職先で奇跡の再会を果たしたときは、心底驚いたものだ。
 すべてが順調だった。けれど冬のある夜、何度電話をしても先輩に繋がらない日が訪れた。そして。
 彼の訃報を降谷先輩から聞かされる。そうだ、俺はこれを知っていたではないか。
 これでは、だめだ。そう思った瞬間、意識は遠ざかっていった。

   ◇

 再び意識が浮上した。
 枕元の携帯を確かめると、最後に先輩に連絡したときには薄っぺらい板一枚になっていた筈だったそれが、それなりに質量のある二つ折りのものに姿を変えている。液晶に表示される日付は古い。壁にかかっている制服を手に取り、きちんと身なりを整えて外に出る。
 一度目を終えたことで俺は漸く、どうやらこれは時間を繰り返しているらしいということを自覚した。記憶に新しい高校生活を粛々と消化していく中で、時間を逆行することとなった原因に想いを馳せる。
 戻ってきたのであれば、どうにか先輩を助けることはできないだろうか。
 ふと思いついた考えは、名案のように感じられた。

 先輩は吊り目がちで、黙ってると少し気難しいひとのような印象を受ける。取っつきづらい雰囲気があって、けれど、よく人好きのする笑みを浮かべている。だから、彼が行動をよく共にしている、女子人気の高い降谷先輩の方よりも先輩の方が、俺にとっては接しやすいように感じられていた。
 決して積極的に関わりに行った訳ではなかった。だが今回も遠巻きに眺めていると、時折俺に気づいては、先輩は親しげな様子でそっと手を振ってくれた。
 職業は前回同様警察官を選んだ。何故先輩が亡くなることになったのか。潜入捜査官であるということが、敵に露呈することになったのか。俺は俺なりに、先輩の死に至った原因を突き止めようとしていた。形のないものを追いかけているような手応えのなさを覚えながら、けれど俺はその正体を掴みかけていたのだと思う。そして。
 夜道で大きな衝撃を受けた。何が起こったのか、一切の理解が及ばない。先ほどまで肌寒かったはずなのに、それすらも感じられない。
 次の瞬間には、もう意識はそこに存在しなかった。

   ◇

 三度目の目覚めだ。巻き戻った先は今回も同じ地点であるようだった。
 警察官という道は先輩を助ける上で困難な選択だったのだろうか。いや、まだわからない。もう少しだけやってみよう。そう、決意を新たにする。

 過去二回を振り返り、上手くいかなかった原因を探る。いつだって問題点の見える化は必要である。いくら挙げていったとしても、実際のところがどうであるかというのは、文字通り死ぬまで分からないのだけれど。
 俺と先輩との関わりが浅いから、先輩に与えられる影響が少ないのだろうか。ふと思い至った考えに、目立つ二人組の片割れとしてではなく、個としての先輩を認識するようになったきっかけを思い出す。
 入学してから割にすぐのことであったと思う。初日も初日から、なまじ存在感だけはあっただけに、正しくどうであったかまでは思い出せない。
 俺がその場所に通りがかったときには事は既に殆ど収束していた。上級生が何事かもめていたということはその場にいた人たちの会話から推察することができたけれど、詳しいことは当時も今も知らないままだ。
 殴り合いに発展していたらしい当事者たちが教師に連れられてそれぞれ現場から離れていく。片方を取り押さえていた先輩はその背中を寂しそうに見送っていた。その表情が、なんとなく頭に張り付いて離れなかった。
 先輩はそういった、日常の中に現れる非日常に度々登場していた。あるときは、朝の満員電車で気分の悪くなったひとが、電車を降りた瞬間にホームで倒れたとき。またあるときは、自転車に乗っていたひとが歩道で突然ひっくり返ったとき。良心のみでは関わることを避けるかもしれない場面で、彼は必ず自分が正しいと感じる選択肢を選んで行動していた。
 ひとつひとつを拾い集めていくうちに、先輩の存在は俺の胸の中で燦然と輝くものになった。鮮烈な印象。強い憧れがまぶたの裏に焼き付いている。

 俺は先輩のそういった場面に出くわすことが多かったように思う。最初は遠くから見守るばかりであったそれも、回数を重ねるごとに俺もまたその手伝いをするようになっていた。ただ自分に恥じない生き方をしたい。いつか先輩の言った言葉が、俺にとっての柱になっていた。そして。
「せん、ぱい」
 高校二年生の冬。危ないと叫ぶ先輩の声。どんと強く背中を押された後、後ろで鈍い音が聞こえた。恐る恐る振り返る。何が起こったのかなんて分からなかった。じわじわ広がる赤色が、先輩の体から命が流れ出る光景が、理解よりも先に状況を訴えた。
 ああ、なんてことだろう。こんなのは正史ではない。強い否定を浮かべた瞬間、再び意識は遠ざかった。

   ◇

 最早意地になっていた。
 高校時代の先輩を、もしかしたら助けられるのでは、なんて、本当はただの思い付きでしかなかったのに。俺に向かってスコッチだと名乗ったあのひとのことが、目覚めの瞬間、一番に頭をよぎる。軽い気持ちの筈が、いっそ執着の域に達していた。
 そういえば、先輩の名前は何といっただろうか。幾度となく繰り返すのに、それだけは靄がかかったかのようにずっと認識できなかった。

 前回の件で少し曰くのついてしまった職業は辞退して、この回では別の面からなんとかできやしないかと考えた。つまり、彼の潜入先に俺自身も潜り込んで、内部からの打開を試すことにしたのである。高校生の途中から夜の町を練り歩き、自分の意に反する人付き合いを構築した。この人生では以前のように先輩と良好な関係を築いてはいなかったので、もしかするとこれを知られたとき、俺は彼に嫌われてしまうのかもしれなかった。でも、それでいいと思っていた。ただひとつ、先輩を助けるのだという目的が成されるのであれば。
 強い意志で悪行を重ねる。大学生を卒業したばかりの頃、新しく知り合った男に既視感を覚える。俺はこの相手をうまく使えば組織に属することができるだろうと確信していた。そして。
 狙い通りに潜入することは叶った。それなりに上手く立ち回ったとも思う。けれど、未熟者の俺は先輩に対する憧憬を隠し切ることができなかった。結果としては惨憺たるもので、俺は裏切り者の疑惑を向けられ、志半ばでジンに殺されてしまったのである。雪のちらつく夕暮れ時のことであった。
 そして場面は移り変わる。

   ◇
 幾度となく時を越え、繰り返し、けれども目標が達成されることは一度もない。
 巻き戻りの回数が二桁に届くか届かないか、この時にはもう既に感覚は曖昧だった。戻るのは決まって高校一年生のある時点。遠巻きに先輩たちを眺めていた、あの頃だった。
 この周回で選んだのはアメリカの警察機関だった。高校二年生の途中、親の都合で国外に出た結果のそれは、日本で警察官をやっていた時よりもずっとしっくりきた。その中で、特に世話になった先輩がいた。先輩とは言っても出会いに職場は一切関係がなくて、学生時代に彼の働いているお店に辿り着いたことがきっかけだった。だから今はいくらか落ち着いたそのひとがやんちゃしていた時のことを俺は知っているし、四つくらい年上のそのひとのことを、俺は名前で呼び捨てることに抵抗がない。職場で再会したときにはお互い驚いたものだ。
 そのひとが組織に潜入をした凡そ半年後、サポート役として俺もまた別のルートから組織の内部へ身を沈める。
「初めまして。俺はスコッチだ。よろしくな」
「よろしく、センパイ」
 煤けた世界のなかにあっても、先輩の煌めきは美しく見えた。
 彼の死が自決に依るものなのは知っていた。その方法も、どんな状況により引き起こされたものであったのかも。
 俺はどうしても先輩を生かしたかったが、秘密を知るひとが少なければ少ないほど安全であることを知っている。組織に所属している以上、意に反した行いと完全に縁を切ることはできない。けれど、折を見て秀一に相談しようと心に決めて、俺はその時を待っていた。
 結果として、命を救うことはできた。けれども、助けたと安堵した矢先、俺は地面に倒れ伏すことになった。俺を呼ぶ先輩の声が聞こえる。熱いも冷たいも分からない。誰かの足音が近づいてきて、そして。
 そうだ、景光だ。ここでようやく、名前を思い出した。

   ◇
 何度も同じ時間軸を繰り返しているが、記憶が曖昧な部分が多いせいか、あまりその自覚がない。惜しいところまでいけたから、最近はずっと同じ経路で先輩に近づくことにしていた。組織の人間として近づいても尚、俺が懐いていれば、彼は決して俺を無下にはしなかった。景光先輩。そう呼びたいのを飲み込んで、今度こそ成功させようと決意を新たにする。

 慌ててビルに駆け込もうとする降谷先輩の足止めをして、秀一が先輩を保護する時間を稼ぐ。それが一番シンプルで、確実に近いということを、俺が何事か策を練って余計なことをしない方が上手くいくのだということを、この時には既に理解していた。
 果たして、その行動は功を奏した。対組織の大掛かりな計画を練る段階に至っても、先輩は繰り返し死んだ夜を乗り越えて息をしている。
 俺は達成感に包まれていた。身分を明らかにした降谷先輩と、連邦捜査局の潜入捜査官として対面する。彼は高校時代の俺のことを覚えていたようだった。負の連鎖に終止符を打つべく、秘密裏に準備を整えていく。
 それが大詰めに入った段階で相手に気取られたのは、できればあってほしくはなかったが、予想の範疇だった。警察側の頭脳たちがその場で作戦を練り直し組み立てていく。その中には景光先輩の姿もあった。死人と偽って離脱したことで現場には出られなくなってしまったが、サポート要員として、その力を惜しみなく発揮していた。

 俺に割り振られた役目を果たすべく潜り込んだ屋敷の中では、組織の誰とも対面しなかった。突如として響き渡る轟音に、崩れゆく壁や天井が周囲を覆い尽くしていく。インカム越しに先輩が、俺を呼ぶのが聞こえていた。
 そして。

   ◇

 重たい瞼をこじ開ける。これまでの経験から、枕元の携帯を確認しようとするが、体は全く動かなかった。唯一動く眼球を、ぐるぐると動かして周囲を確認する。
 目に入るのは白いばかりの天井だった。側には点滴のようなものがあって、その管は自分に繋がっているように見えた。
 声はでなかった。まるで出し方を忘れてしまったかのように、喉に張り付いている。
「……目を覚ましたのか」
 近くで聞こえた声は、聞き覚えのあるものだった。

 しばらくして、医者がやってきた。どうやらここは病院で、自分は入院をしていたらしい。次々に切り替わる出来事に、脳の処理が追いつかなかった。
「しゅういち」
「なんだ。無理はするな」
「ひろみつ、せんぱいは」
 秀一が一瞬息を詰まらせたのがわかった。そう、彼は助かったはずだ、確かに。
「死んだだろう、彼は……」
 あのとき。秀一の言葉に思考が止まる。一体、どういうことだろう。瓦礫に包まれるあの瞬間、確かに先輩は俺の名前を呼んだのに。
「え、でも……」
「記憶が混濁しているんだろう。今はゆっくり休め」
「うそ」
 秀一がおもむろに立ち上がる。掛け布団をしっかりと上まで掛けてくれて、胸のあたりをぽんぽんとあやすように撫でた。
「お前の後輩が随分気を揉んでいたようだから、元気になったら連絡してやれ」
「後輩……」
「水無……いや、本堂瑛海だったか」
 曖昧な俺の反応に、彼は眉を潜めた。心が一向に追いついてこない。呆然としたまま、退室する彼の背を見送る。
 ふと、部屋を出る前に、彼が一瞬だけ振り返った。そのとき見せたもの言いたげな表情が、すべての答えであるようだった。

   ◇

 それがずっと、心残りの一つだった。
 高校時代の憧れのひと。俺が他国の潜入捜査官という身分を隠し、組織の下っ端として対面した日。あのとき、俺は自分が今の職業を志した理由になったひとに再会する。名乗られた名前が偽名であることはすぐに分かった。彼は俺を知らなかったけれど、俺は日本を離れた後ですら、彼の影を追いかけ続けていたからだ。
 先輩が、先輩たちが、何故ここにいるのか、本当に悪事に手を染めてしまったのか、俺には判ずる材料が何一つなかった訳だけれど、景光先輩の善性を信じたい気持ちが強かった。彼の掲げる正しさを彼が今も持ち続けているがゆえにこの場所で出会ったのだと、信じていたかった。
 不自然ではない程度に、俺は彼に懐いた。彼から直接仕事を割り振られることもあった。その裏側で、俺は先輩が他に所属する先がないかを調べていた。そして、そのうちに確信を得る。
 それぞれにやりたくないことをやりながら、けれど俺は、学生時代なんかよりもよっぽど先輩と関わる機会の増えたことが、なんだかおかしくて仕方がなかった。組織の仕事が及ばない部分ではその接触を楽しんでいたし、その度にやはり先輩は先輩であるのだな、と実感したものだった。
 けれどそんな時間はあっという間に終わってしまう。何度振り返っても、先輩と過ごした期間より、先輩がいなくなってからの時間の方がずっと長い。

 先輩が自決したそのとき、俺はたまたま現場となったビルの屋上にいた。物陰に潜んでいたところで起こった一連の流れに、声を上げることすらできなかった。当事者のひとりであった秀一はそれを知っている。
 最後まで触れることのできなかった後悔を、俺は未だに消化できずにいるのだ。

   ◇

 耳に残る爆発音。崩壊する屋敷、迫る瓦礫。耳元で俺を呼んだのは、一体誰だっただろう。
「起きたんだな」
 ノックの音は、聞こえなかった。思考に没頭していたからだろう。
 入ってきたのはもうひとりの先輩だ。彼は、きりりとした表情でそこに立っている。
「ふるやせんぱい」
「先輩……? ああ、そういえば君は母校が同じだったな。どうした」
 ああ、この声だ。

「いえ……ながいゆめを、みていたんです」