ないたらないで、なくなった

 空が泣いている。軋む屋根の音が鼓膜を揺らし、漠然とした不安感を覚える。
 こんな夜はいつも、彼のことを思い出す。彼女の小さな頭をすっぽりと抱え込んで眠る、あの穏やかな時間。安心できるように、とくとくと脈打つ心臓の鼓動を聞かせてくれたことを。

 その場所で、彼ははじめ霞がかった存在だった。姿を認識することは困難で、けれども確かに彼であるという確信が彼女の中にあった。ためしに話しかけてみると、そのもやもやは少し嬉しそうな反応をした。声はなにも聞こえなかった。
 彼女はこれを、夢であると正しく認識していた。そうであるのならば、彼がいなくなってから降り積もった、ひとりで過ごした毎日について、少しでも彼と共有したかった。
「昨日はオムライスを作ったんだよ」
「……」
「ヒロくんと食べたやつは卵かたくて破けてたけど、とろとろの美味しいやつ、作れるようになったんだよ」
「……」
「……ね、ヒロくん」
 いつまで待ったら迎えにきてくれるのかな。危うく飛び出しかけたその言葉は、声になる前に呑み込んだ。とはいえ、この不定形の彼には、すべてを見透かされていたような気がするのだけれど。

   ◇

 鳥が鳴いている。目を合わせたら目玉を抉られるのだと教えられたことは幼心に強い恐怖を与え、すっかり成長した今も、かあかあ響く音の出所には視線を向けられない。
 夕暮れが道を赤く染める。かつてふたりで歩いた道をひとりきりで歩く。その行為に、何年たっても慣れることはない。いつだって、彼女のそばには彼が存在した。小さな彼女の手をしっかりと握って、延びた影を追いかけた。

 胸がきしきしと軋む。彼女は大きな喪失感を抱えながら、毎日を生きている。
 以前よりも、そのもやもやはひとの形に近づいたように見えた。今日は何を話そうか。彼女が最近の出来事を振り返っていると、白いそれが彼女の頭を撫ぜる。
 温度はない。感触も。けれど、その感覚は、かつてずっと傍にいてくれた彼の手を想起させるには十分だった。
「ヒロくん、なんでわたしのこと置いてっちゃったの」
 ぼたぼたと零れる涙の粒を、いつも拭ってくれる手は、形のないそれをうろうろと彷徨わせるだけだった。

   ◇

 心が凪いでいる。先日仕事の都合で訪れた町で、長年行方不明であった幼馴染みと再会したからである。何か事情があるようで、それ自体をはっきりと肯定されることはなかったけれど、彼女自身はあれが自分の幼馴染みであることを確信しているからそれで良いのだ。かつての日常をひとつ拾ったことに対する安堵は大きかった。その日はお互いに時間がなく、挨拶以上の会話は難しかった。別れ際顔色が良くないと心配する彼に、ただ一言お礼を言って再会を約束し、彼女は帰路を急いだ。
 幼馴染みは、彼女の狭い世界の中に介入することを許された唯一の存在だった。家族を除いて彼と彼女と三人で過ごすことを許された存在は、後にも先にも他にいない。

 記憶の中の彼の姿を映し出す。白いばかりであったそれが、完全にひとの形を成した瞬間であった。彼は困ったように微笑んで、そして彼女の手を取ろうとする。まだ叶わない。彼の口唇が動いた。声もない。けれど言葉は伝わった。彼女が頷く。
 いつものように、彼のいない朝が来る。

   ◇

 嘘は無いでいる。ヒロくんはどこにいるの、と聞いたとき、幼馴染みはなにも応えなかった。本当は、聞かなくても彼女は答えを知っていた。律儀な幼馴染みの変わらぬ部分に感謝して、そして静かにさよならをする。
 何事か思うところがあったのか、幼馴染みが一度彼女を制止した。帰ろうとした彼女を引き留めて、けれど告げるべき言葉は見つけられない様子だった。ごめんね、ずっとだいすきだよ。口のなかで転がした心の声は、けれど正しく相手に伝わっていたように思う。

 生まれる前からずっと一緒だった。ただ一時離れただけで、こんなにも苦しいのだ。また同じ時を過ごそうとすることの何が悪いというのだろう。
 その日はいつもと様子が違った。常ならば何もない空間には台所とテーブルが用意されていて、今は懐かしい田舎の内装の通りになっていた。
「兄さんになにも言わずに来ちゃった」
「……」
 彼は台所に立つ彼女の傍にそっと佇んでいる。何事か応えたようであったが、彼女の耳にはなにも届かない。
 必要なものは全てその場に揃っていた。慣れた手つきで準備を済ませる。出来上がったのはいつか話したオムライスだった。ふたりぶんのそれをお皿に盛り付けて、食卓テーブルに並べる。
「いただきます」
 ひとり分の声の後、鏡にうつった姿のように、ふたりがぴったりと同じ所作で食事を運ぶ。ふわふわの卵が口の中に広がった。ひとくち、ふたくち、飲み込む度に、じわりじわりと身体が作り替えられてゆく。
「本当、上手になったな」
 申し訳なさそうに、けれど確かな喜色を滲ませて微笑んだ彼が、向かい側から手を伸ばし、そっと彼女の頭を撫ぜた。ひとすじ、胸に空いた空洞が、そのときやっと肯定されたのだ。

 彼は、亡いでいる。