淋しさは鮮やかに沈めて

 自由に生きることに固執していた時期がある。それに囚われていた頃、彼は自分が正しく自由であると感じたことは一度もなかった。今思えばくだらないことであるが、長い間、地に足の着かない心地で毎日を無駄に消費していた。彼がらしさの入り口に立つ、その運命の出会いを果たすまでは、ずっとそうであった。
 現状に至ったきっかけは一体何だっただろうか。大学生くらいまでは、それなりに安全なところで息をしていたような記憶が残っている。だというのに、気づいたときには社会の裏側で後ろ暗いことに精を出しているのだから驚きだ。
 とはいえ、それに関して彼に後悔はない。もしまた同じ分岐に立てることがあったとして、選ぶ道はきっと今と相違ないだろう。成り行き任せの結果ではあるが、彼の所属する組織は彼自身にとてもよく馴染んでいた。
「待たせたね、スコッチ」
「ああ、別に……それより、本当にやるのか?」
「なに、きみ、この期に及んでまだそんなこと言ってるの?」
「いや、だって」
「安心しなよ。僕がお前を最高の女にしてあげる」
 華やかさに欠ける顔立ちであったが、そっと微笑んだ彼の表情は素朴でとても好感が持てる。スコッチは折に触れ、彼の、その無害そうな雰囲気に騙されそうになる己を律していた。
 組織の一員として割り振られた仕事の流れで、どうしても異性に扮する必要があった。次に会うクライアントが異性装を眺めることを好む性質で、手の空いている者の中でスコッチが最も相手の好みに一致していたからである。決まってしまったからにはやらなくてはならないが、二十数年の人生をストレートの男性として生きてきたスコッチは、そちらのことに明るくなかった。そこで呼び出されたのが彼であった。
 自らも異性装を生業にしている彼は、スコッチにとって、見るたびに驚くような外見を装っていることが多かった。すごい世界が存在するものだと遠巻きに眺めていたあの日から、まさか自分もそこに至るとは想像もしていない。お手柔らかに頼むと震えるスコッチに、彼は面白そうに息だけで笑った。
「いつものような化粧はお前にはしないよ」
「えっそうなのか?」
「あの人に会うならその方がいい。お前は素材がいいからきっと気に入られる」
「あんまり嬉しくはないな……」
「はは、頑張っておいで」
 遠い昔、母の化粧台で嗅いだ匂いが、肌の上をなぞっていった。

 違和感のないほどに美しい女性と成ったスコッチを見送って、彼はこれからの出来事について思いを馳せる。さて、あのウイスキーは、上手く立ち回って離脱できるだろうか。それとも、未知の世界に足を踏み入れて戻ってくるのだろうか。存外体つきのしっかりとした一目惚れの相手を思い出しながら、けれどその先を想像するのは止めておいた。
 彼は別に構わないのだ。生きているスコッチが、自分のものにならなくたって。
 広げた商売道具を片付ける途中、彼の口唇を辿った筆で、一筋の紅を引く。
「お前の死化粧は、きっと僕に飾らせてね」