泉下の客を待っている

 彼女には昔からずっと、見えない友人が傍にいた。それらは柔らかい言葉で彼女を包み、受け入れ、そして親切にしてくれる。彼女はそれらのことがすきだった。
 それが多くのひとにとっては当たり前ではないのだということを知ったときには、もう取り返しの余地がないほどに、周囲には彼女に関する悪評が出回ってしまっていた。両親は歩み寄る努力をしたが理解には及ばず、けれど彼女にとって絶対的な味方で在り続けたのが唯一幸いだったと言えるだろう。ただ、学校などといったコミュニティの中で、彼女はずっと孤立し続けた。爪弾きに遭い、心ない言葉を浴びることも度々あった。
 それが降り積もるごとに、彼女はただ生きているだけの人間のことが、信用に足る存在ではないのだと感じる。その考えが定着してからは、境を異にする存在としか積極的に関わりを持とうとはしなくなっていた。

「お兄さん、こんなところでどうしたの」
 胸に風穴を開けて中空を漂う存在に、彼女は臆することなく話しかけることができた。寂れたビルの屋上で自分自身を打ち抜いた、その場所からずっと動けずにいた彼は、そんな彼女の存在に素直に驚いた。こんな場所に足を運ぶ人間も滅多にいなければ、来たところで彼に話しかけることもない。
「君こそこんなところに何しにきたんだ」
「何にも」
 あっけらかんと答える彼女の表情はどこかあどけない。彼はますます彼女が理解できなくなって、けれど夜も深まった今、女性が一人こんな場所をうろついていることに対する憂慮が浮かぶ。早く家に帰るようにと言葉を重ねる彼に、彼女はきょとんとした様子で質問を返した。
「お兄さんは?」
「見ての通り帰る場所なんてないし、そもそもどうやってここから動けばいいかもわからないんだ」
 腕を組んで、胡座をかいて、これまでどうにもならなかった事実をただそのまま伝える。壁に散ったしみを振り返る彼の視線を、彼女もまた同様に追いかける。
「……じゃあさ、わたしと一緒に帰ろうよ」
「君と? はは、気持ちだけもらっておくよ。ありがとうな」
「冗談じゃないよ、お兄さん」
 彼女はそう言って、彼の冷たい手を握る。その瞬間、彼は自分自身がこの場所から解き放たれたことを感じた。彼女は実体のないものに触れることができるだけではなく、どうやらある程度の力技を行使することができるようだった。
「君は、一体……」
「お兄さんのこと、わたしずっと、待ってたから」
 まるで説明にならない理由を最もらしく呟いて、彼女は彼を連れ帰る。

   ◇

 ほんの少し前までの、まだ生きていた頃の彼のことを、知っている。
 去年の夏。課題の発表があるからと、月に一回待ち受ける重ための体調不良に鞭打って、無理矢理大学に出ようとした行き道でのことだった。あまりの気持ち悪さに耐えきれず、途中下車をしてホームに蹲った彼女を支え、介抱してくれたのが、見ず知らずの彼であったのだ。
 彼女ははじめ、その善意を心から疑っていた。打算のない親切などこの世には存在しないと信じていた。そして、その認識は、未だに改まったとは言えない。
けれど、彼が唯一その例外であるかもしれないことは、その温かい指先から、心を砕く言葉から、僅かながら感じることができた。そうであれば、いいのにな、と思うことができた。彼女の傍にいつも居てくれる二又の尾の猫が、力強く頷くのを見たからである。生きた人間に期待を抱いたのはいつぶりであっただろうか。自らの心持ちが、ただ不思議でならなかった。若しかしたら好ましく感じられるかもしれないと考えて、だから早く、彼が彼岸のひとになれば良いのにと願わずにはいられなかったのだ。

 彼女は覚えている。その温度を。
 そして、いまは無くなったそれに、恋慕の情を抱くのだ。