レテの水を探して

 寄せては返す波の音が、耳の奥でさざめいている。遠くの空が下の方からうっそりと赤らんで、重たい波間に滲んでゆく。明けきらぬ闇はまだ深く、けれどもじわりじわりとその輪郭を光の中へと溶かしていた。水平線をふちどる金の揺らめきはうつくしく、新たしい日を言祝いでいるようにさえ見える。
 鼻を刺す痛みは一瞬だった。彼はゆうるりひとつ瞬いて、くちびるにそっと潮の香りを感じるのだ。


 彼をその街へ連れてきたのは、果ての見えない悔悟の念であった。
 生まれは遠い海の向こう。聞き馴染みのない土地は写真のなかでしか見たことのないような景色に囲まれ、耳に慣れない言葉はつるりと宙を滑ってゆく。記憶よりもずっと小さな手足が、彼に自らの変容を受け入れさせた。
 一歩町へと飛び出せば、そこかしこに見たことのない姿をしたいきものがいる。甘い匂いのするちいさなふわふわを指差してあれは何かと尋ねると、手を引かれた母はちいさく微笑んで、あのこはマホイップというのだと答えた。聞き覚えのない名前だった。見える姿は多種多様で、犬のような姿をしたものもいれば、鳥のような姿をしたものもいる。買い物へ向かう途中の広間で火を吹いている百足のような何かに出会ったときは驚いて母の後ろに隠れたし、父よりもうんと大きな恐竜みたいなものに出会ったこともある。見知らぬそれが増えるたび、答え合わせに親を振り返った。ひとと一緒に暮らすそれらについて尋ねても母は種族名しか答えないので、彼がその不思議ないきものたちを彼の知る存在と結びつけるのには、いくらかの時間を必要とした。
 住む環境や姿形、何を取ってもひどく広いそれらを総括してポケモンと呼ぶのだと知ったのは、集団生活に身を投じるようになってからであった。

 ポケモンと呼ばれるものはよく知っている。この地方は自らの知る画面の外にあるようだったが、その事実を知ったとき、彼はどうしようもなく気持ちが昂ぶるのを自覚した。空想のなかにしか存在しないいきものではあったものの、幼い時分より断続的に触れてきたものだ。かつては何者にもなれなかった自分でも、ここでなら何かを成せるのではないだろうか。薄暗い希望はまだ幼いからだのうちを食い破り、誰も知らない記憶の使い道を決断させる。初めて両親に言った我儘は、自らのポケモンを欲することであった。
 奇しくも、彼の脳内に刻まれる数値化した情報は、ネットや蔵書の海をいくら泳いでも見つけることはできなかった。誰も発見していない、もしくは証明することのできていない概念なのだ。ゲームのように現実にステータスが表示されることはない。その代わり、多くのポケモンの特徴を記載した最もポピュラーな図鑑には、生息地やその習性、どういった能力に長けていて、どういった技を得意とするのかなどといったことが記されていた。
 知らないポケモンが多かったので努力値を振るのには難航するかと思ったが、その図鑑のお陰である程度の応用はきいた。例えば一番道路で初めて出会うポッポは素早さが上がる。この地方の一番道路で出会えるココガラは、特徴を読む限りではポッポに対応しているように思えた。ざっくりとでも何の能力に明るいのかさえ知ることができれば、多少回り道をしてでも望むとおりの結果を得ることができる。初めて与えられたポケモンと一緒に一日中一番道路に入り浸っていたときは母に何事かと尋ねられたものであったが、不自然にココガラばかりと戦闘する姿は誰にも見咎められることはなかった。
 けれども、スクールのバトルフィールドで初めて行った対戦は散々なものだった。ゲームとは違ってターン制ではない。攻撃技を目くらましに使うこともあれば、対戦相手はトレーナーの掛け声と共にぽんぽん技を避けてゆく。命中率の百なんて数字はあまりあてにはならないことをここで悟る。実際に使って分かったが、あれは予備動作や技の発動に伴う状況の変化により、相手にどれほど読まれやすいのかという目安でしかなかったのだ。
 デビュー戦で彼は勝利を収めたものの、パートナーを散々混乱させた後になんとかもぎ取った結果に納得することはできなかった。思わず溢れそうになる舌打ちを飲み込んで、ボールのなかの相棒を覗き込む。子供相手に辛勝している場合ではないのだ。だって、彼は、ひとかどの人物にならなくてはならないのだから。
 苦い勝利の後、彼はただ強いポケモンを求めた。けれども、いのちあるものを前にして、個体値の厳選に手を染めることだけはどうしてもできなかった。そもそも計測の方法だってわからない。結局のところ、時折出される里親の募集を渡り歩いては、種族値に見合った性格のポケモンを探すのが、彼に残された理性であった。


 耐久に割り振ってミスを誘う勝負より、補助技を積み上げて全抜きをするより、対面や交換の相性を読んで高火力技でぶち抜くのがいっとうすきだった。彼の手持ちはタイプこそ多様ではあるものの、バランスはあまり良くない。始めに譲り受けた三体が完全に特殊アタッカーだということに気づいたときには、ガラル地方にラッキーを使うトレーナーがいなくてよかったと胸を撫で下ろしたものである。勿論それは束の間の安堵であったが。
「きみのポケモンは、ずいぶんとひかえめな性格をしているんだな」
 ある日、対戦の後に広げたキャンプでかけられた言葉が、彼のなかで妙にひっかかった。異様に硬いとか異様に速いとか難癖をつけて、外法に手を出しているのではないかと疑われた経験もあったが、今回はその類ではないようだ。謂れのない誹りであれば何も受け取らずにすんだのに、いやに残ってしまったのは、自分のなかに後ろめたい心当たりがあったからかもしれない。
 その能力を最大限生かすのであれば、ひかえめ以外の選択肢はあり得ない。持ち物をスカーフにするならおくびょうでも良かったが、待って待ってようやく出会えたそのたねポケモンは、ひかえめの他にはいじっぱりな子とれいせいな子しかいなかったのだから仕方がない。特攻お化けと名高いその子を育てるのに、特攻が下がるなど論外であるし、元より取り立てて速いわけではない素早さが下がるのも避けたかった。一番道路で調整をして、あとは飴で練度を上げる。フラットバトルに過ぎた練度は必要ないため、与える飴の数は経験値タイプで決まっていた。
 切なげな声を上げる手持ちを、勝つためだからと言葉を尽くして盤上に立たせた。相手の攻撃に怯える姿に、思うようにいかない苛立ちを必死で噛み殺して、何度も何度も向かわせた。ただ自らの虚栄心を満たすために、べつのいのちを巻き込んだ。
 初めのころを振り返ってみれば、急激なレベルアップと進化に順応しきれぬ手持ちたちを、いきなり対戦の場に出すことが殆どだったのだ。それに気づいた瞬間、明るく照らされていたはずの未来へ続く道が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが見えた気がした。
 苦楽をともにした手持ちたちは決して彼を否定しなかった。しかし、ひとの道にもとる行いであったのではないかという自身の問いかけが、彼の足を縫い止めた。手持ちたちはプログラムされた数字ではなく、熱を持ったいきものだというのに、生まれ持った知識が目を曇らせた。長く疑問にすら思わなかったそれをようやく自覚したとき、彼はポケモンと呼ばれるいきものたちのすべてから、手を引くことに決めたのだ。

 だれも自分のことを知らない場所へ行きたかった。
 長い船旅は正しく彼をそのような土地へと運ぶ。きらきらとはじける陽光が、直前まで室内で佇んでいた彼の目の奥を刺激した。

 彼にとって原点とも言えるその地方の土を踏んだ日。その日はそのまま移動せず一泊することにした。夕暮れに沈むクチバの街は、その名にふさわしくひときわ美しい。ただ歩く景色のなかに耳慣れた音楽は流れてこないが、初めて触れる潮風なのに、目を閉じれば驚くほど容易く波止場の曲を思い出すことができた。
 二度目の旅は驚くほど穏やかなものだった。岩陰から飛び出したコラッタが足元をくるくると駆け回り一瞬身構えるが、攻撃を仕掛けてくる様子はない。草むらを避け、道を選んで歩くのは、ずいぶんと久しい感覚だった。
 答えを求めて彷徨う彼は、もうずっとはじまりの町へと心を傾けている。けれどもそこへ至るには、草むらか水道を抜けなくてはならなかった。彼にとっては特別でも、実際は見るもののない田舎町だ。ポケモン研究所やオーキド博士は有名だが、観光に向かないその場所に、海を渡る定期便なんてものは存在しない。胸を焦がす羨望はいつまでも褪せることはなかったが、諦める以外の選択肢がなかった。野生ポケモンの出るエリアに足を踏み入れることができないからだ。
 手持ちたちは皆故郷においてきた。今の彼は、ポケモントレーナーではない。

   ◇

 ひとの出入りの激しい街だった。彼のように流れ着くひともいれば、ただいっとき羽を休めてはまた渡って行くひともいる。
 旅の終わりは唐突に訪れた。人間ひとりきりの旅なので夜は歩かないことにしていたが、広大な平地で見上げた寒々しい空があまりにも綺麗であったので、その日は気の赴くままに先へ進んだのだ。ひとびとの寝静まる頃にたどり着いたその街には大きな船が停泊していて、まばゆい光を放つ灯台が、海をゆく彼らの道をあかあかと指し示していた。近づいてみれば忙しなく動く人影があり、どうやら荷物の積み下ろしをしているらしいことを知る。
 話しかけるつもりは毛頭なかったのでそのままふらりと街を外れ、水道の入り口へと足を向ける。視線を少し山側へ向ければ、建設中の大きな覆いが存在感を放っているのが見えた。柔らかなさざめきに視線をやれば、一面に広がる夜が月明かりを映して煌めいていた。吸い寄せられるように波打ち際に立ち尽くして、足元を覆う冷たさに安堵する。凍てつく海は停滞を許さなかったが、離れることは惜しかった。数歩退き波の当らぬ場所にそっと腰を下ろして、海と空の溶ける場所をぼんやりと眺める。
 やがて夜の終わるその瞬間。あの日、彼は確かに、自らを成すこころの残滓と呼べるものを、ここに棄てることができると思ったのだ。

 この街で暮らすようになって八年、故郷を飛び出してからは十年という月日が流れていた。顔馴染みは多く、けれども常に見るわけではない。大きな船が寄港したので街の酒場に顔を出せば、陽気な船乗りが彼の名前を呼ぶ。広く浅い関わりが、臆病になった彼のこころを癒していた。
 町外れの水道にあった工事中の鉄骨はすっかり取り払われ、数年前にはバトルタワーと呼ばれる建物が開かれた。潮風に傷んだアパートに身を寄せてから、そう遠くはない出来事である。ひとで賑わう港町にはまたべつの目的を持った客が増え、どこまで逃げても断ち切れぬ縁に、当時彼は失笑したものだった。手探りで始まった運営は時の流れと共に軌道に乗ったのか、大規模な改装を経ていまはバトルフロンティアと名を改めている。何にせよ、努めて関わらぬように、街の中心へ行くよりもずっと近いその場所へは足を向けることすらしなかった。

 ある日海辺の市場で買い物をしようと家を出たら、少し歩いたところでひとの泣く声がするのが聞こえた。そう遠くない場所から聞こえるそれは、どうやら件の建物の近くが発生源であるらしい。じっと耳を澄ませてみると、甲高いそれが子供のものであるように思えた。躊躇いは一瞬で、彼はすぐさま声のする方へ駆けつける。
 周囲にひとはいなかった。暴れるポケモンでもいた日には彼に太刀打ちできないが、そういった気配は一切感じられない。建物の近くで鼻を鳴らす子供に駆け寄って、怯えさせぬようしゃがみこみ、自身の手の届かぬ位置から声をかけた。
「どうして泣いているの。迷子?」
 子供はふるふると振って否定した。近くに保護者は見当たらない。泣き暮れる子供をじっと観察すれば、腰にモンスターボールが掲げられているのを見つけた。少々幼すぎる気はしたが、どうやらトレーナーであったらしい。
 バトルに勝てない苦しみか、負けた悔しさか、大方そんなところであろうとあたりをつけて、彼は静かに子供が落ち着くのを待った。大人の端くれとして、子供をひとり放って帰るのは、良識のない振る舞いだと感じたからだ。
 ひとしきり泣いて一旦落ち着いたのか、子供はゆっくりと顔を上げる。見るからにトレーナーではない彼の姿を目に留めて、億劫そうに言葉を連ねた。何度挑んでも勝てないこと、けれども、攻略のために手持ちを変えたりはしたくないこと。自身の家族である三体と、どうしても勝ち進みたいこと。
「きみの手持ちは?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
 彼にはその子供が眩しかった。性能がどうなんて考えは、端から思考の範疇にない。そのひたむきな愛情が、躊躇いなくそれを注げる正しさが、喉から手が出るほど欲しかった。
「ひとりよりふたりの方が、いい作戦が思いつくかもしれないでしょう?」
「お兄ちゃんトレーナーじゃないのに?」
「……うん。そうだね」
 静かに頷く彼を見つめた後、ややあって、子供は手持ちの名を連ねる。ニックネームを先に出されて困惑したものの、首を傾げる彼に気づいて子供はすぐに言い直した。挙げられた名前は生前の彼が使ったことのあるものもあれば、型すら知らないものもいた。
 長く環境から離れては、もう確かな数字を思い起こすことはできない。彼はおもむろにポケットからスマホを取り出すと、電子書籍のアプリを立ち上げた。開いた順に表示される本棚を一気に下まで引き下ろし、購入してから一度も開くことはなかった図鑑を迷わずタップすると、子供の言うポケモンを検索する。そのとき、彼のなかに不思議と躊躇いはなかった。画面の向こうでのんびり微笑むピンクの風船はただ懐かしく、不意に押し寄せる感慨が、彼の意識を一気に攫う。もちもちとして柔らかそうなその見た目に反して、存外しっかりと生えそろった体毛がきめ細かく、しなやかで、触り心地の良いことを彼は確かに知っている。
「プクリンがアタッカー?」
「うん」
「……その面子ならバットで雨起動してもよさそうだよね。クロバットは補助技が豊富だし、意表をつけるとおもう。ああ、でも足はやいし普通に上から殴るのもすきだな。クロバットの性格は?」
「性格?」
「うん。ああ……そうだな、ようきとかいじっぱりとか、そういうざっくりしたやつが分かるといいんだけど」
「……メレメレはようきな子だとおもう。楽しくなるといっつも気持ちよく歌ってるの。あとは食べるのがだいすきでね、何回ダメって言ってもすぐにおばあちゃんにおやつをもらいに行っちゃうんだよ」
「なるほど。……だったら素早さを活かせる方がいいよね。特性は?」
「えっと、せいしんりょく」
「そっか、すりぬけは夢だもんね。みがわり使ってくるひとってどのくらいいるんだろうな」
 水を得たコイキングのように次から次へと溢れ出る言葉を聞きながら、子供は彼の顔をこっそり窺った。スマホをスクロールする眼差しは驚くほど真剣で、ああでもないこうでもないと構成を模索する様子は楽しそうに見えた。
 子供は、何故彼がモンスターボールを持っていないのかが不思議だった。対戦環境こそ把握していないものの、彼の語る育成論は、ポケモンへの深い情熱によって成り立つものだったからだ。
「お兄ちゃんどうしてトレーナーじゃないの?」
「うーん。どうしてだろうね」
「ぼく、お兄ちゃんのポケモンと戦ってみたかったな」
「それは……きっと、がっかりしちゃうよ」
「どうして?こんなにポケモンに詳しいのに?」
「詳しいだけじゃ、だめなんだよ。ちゃんとお互いを大切にできなくちゃ」
「なんだ、そんなの。お兄ちゃんこんなにポケモン大好きなんだから大丈夫だよ」
 困った顔で微笑む彼に、幼い言葉が突き刺さる。口のなかがいやに乾いていた。何度反芻したか分からない、振り返る手持ちたちの惑う瞳が、瞼のうらに焼き付いているのだ。
「そんなこと」
「もしかしてお兄ちゃん、喧嘩でもしちゃったの? だからそうやってしょげてるの?」
 どこか見透かしたような子供の声に、彼は返す言葉を選べなかった。喧嘩とは双方向に矢印が向いているものだ。彼らは、喧嘩ひとつすることができなかったのだ。
「バトルで負けたあとはしばらくおつるの機嫌が悪いんだ。ここにくるようになってからは全然勝てないから、喧嘩しない日なんてないよ。ぼくだって頑張ってるのにって掴み合いもしょっちゅうなんだけど、最後はお互いごめんなさいして仲直りするの」
「キュウコンと掴み合いの喧嘩するの?」
「うん。おつるってちょっと抜けてるくせに血の気が多いんだけど、サポート役ばっかり任せてるのも気に入らないみたい」
「A振りキュウコン……?」
「うん? ……だからぜったいれいど決めた日とかは一日中機嫌がいいんだ」
 ぼそりと呟いた言葉は届いたのか届かなかったのか、子供は特に気にした様子もなく言葉を続けた。あっけらかんと告げるその内容に、彼がぶるりと身を震わせる。
「嫌がってるのにサポートを任せるの?」
「うん。おつるは自分が得意なことをちゃんと知ってるし、みんなの勝利が自分の勝利になることも知ってるから」
 子供はポケットからスマホを取り出すと、家族と並ぶ写真を見せた。存外大きな蝙蝠が優しい顔をした女性の小さな膝に陣取って、しわの刻まれた手からきのみを与えられている。子供の語る思い出が、次から次へとあふれてゆく。振り返れば彼はこんな風に、思い出を切り取って集めたことなど一度もない。
「お兄ちゃんもはやく仲直りできるといいね」
 故郷を離れる少し前。良いトレーナーの元で幸福に暮らすべきだと別れを提示した夕暮れ時。バルコニーから差し込む赤い光に照らされて、彼らはなんと言っただろう。何度も何度も首を振って、泣きたくなるような声で彼の決断を否定した。彼らが一歩踏み出そうとすればすぐさま制止して、彼は、謝罪の言葉ひとつだけを残して逃げたのだ。

 呪いのような知識だと思っていた。こんな記憶を忘れてくることができなかったがばっかりに、目の前の温度よりも目に見えぬ数字を注視してしまったこと。彼と彼らの間に横たわる情の一切を投げ捨てて、気づかぬふりをし続けたこと。それでもなお自分に着いてきてくれた彼らに対していつだって、抱えきれないほどの負い目があった。
 波打ち際から数歩引いて、湿った砂に腰を下ろす。頬を撫ぜる風は生ぬるく、少し重たい。中途半端に電池の減ったスマホと睨めっこを続けて、もうどれほど経ったかわからない。視界を掠める灯台の光はデンリュウの命の輝きだ。遠くの波が揺れるたび、彼に故郷の存在を強く意識させた。
 耳に新しい子供の声が、彼の背中を後押しする。そのボタンを押すのには、ひと掬いの勇気が必要だった。
「……もしもし、母さん?」
「久しぶりね。あなたから電話なんて何年ぶり?」
 母の声は昨日の続きのような安堵があった。地方を出てから一度も顔を見せに帰らない息子に対して、彼女は今までに一度も帰省を強いたことはない。嬉しそうに弾む声を聞けば、彼女が自らの憂慮よりも、彼に対する配慮を優先したのは明らかだった。いつまでも母に甘える己の不甲斐なさを実感するが、急に生き方を変えることはできない。スマホを握る指先に、不自然な力が籠もるのがわかった。
「どうしたの?」
 押し黙る彼はなかなか話を切り出すことができなかった。ぐにゃりと歪む口元で、どんな言葉を形取ればいいのか分からない。どのような表情を浮かべて、どのような声色を取り繕って、今更どのような気持ちで、それを口にすれば良いのだろう。
「こんど、」
 母は最初に話を促したきり、言葉を重ねたりはしなかった。彼の逡巡を受け取って、ただ彼が続きを選ぶのを待っている。止まった時のなかに立ち尽くす彼に、正確なそれはわからない。存外すぐであったような気もするし、たっぷりと間の空いたような気もする。掠れた声が、たどたどしく音を紡いでゆく。
「……こんど、ガラルへ帰ろうとおもう」
 ようやく絞り出した言葉に、母が息をのんだのがわかった。応える声は音にならず、耳に当てた薄っぺらな板の向こうには沈黙が広がっている。あまりに長く続くそれに彼が不安になって口を開こうとすれば、いちど、鼻をすするような音が聞こえた気がした。
「……いつ頃、帰ってくる予定なの?」
「まだしっかりとは。でも、近々まとまった休みを貰えるから」
「そう。詳しい日にちが分かったら連絡してね」
「うん」
「あなたが好きなもの用意して待ってるから」
「……うん」
 短い別れの挨拶をすませ、静かに電話を遠ざける。通話の切れる前のほんの一瞬、嗚咽交じりの母の声が、彼の手持ちの名前を呼んだ。久しぶりに聞く鳴き声が、その色に滲む確かな喜びが、じわりじわりと彼のこころに広がってゆく。望郷の念を駆り立てる。
 きっと今頃は食事を終えて、ひと心地着いている頃であっただろう。母の座るソファのすぐ後ろには、曽祖母から受け継いだテーブルと椅子が並んでいる。すんと息を吸い込めば、古い木の匂いが鼻腔をくすぐる。彼はその席がいっとうすきであったけれど、普段はひかえめな灯火が彼の手持ちになってからは、すっかり定位置を奪われてしまった。遠慮がちに紫の炎を揺らめかせながら、満足げに佇む姿が眼に浮かぶ。
「なんだ、ちゃんと思い出せるんじゃないか……」
 遠くの海がわずかに明らんで、夜との境界を塗りつぶしてゆく。聞き慣れて久しい波の音は彼のこころを落ち着かせた。飽和した感情がひと粒、零れ落ちる。ひとつ息を吐き出せば、驚くほどからだが軽くなった。瞬くごとに光が満ちて、金の縁取りの向こう側へと思いをはせる。
 彼はずっと、ずっとずっとまっすぐに、かれらを愛していた。