暮れなずむ繭

 近所に住む兄のような人物が、ずっとずっと憧れだった。
 当時わたしはまだ十にも届かぬ年頃で、街の端っこで会社員をしている両親は、ポケモンと生きる世界に在って珍しく、かれらを所持してはいなかった。わたしにとりポケモンのいる生活とはどこか遠い世界の出来事で、母のガーディを湯たんぽに眠るはなしや、祖父のニャースの腹に顔を埋めて思いっきり息を吸いこむはなしなどを友人たちから聞くたびに、自分にはないその暮らしにただ眩い羨望を抱いたものである。

 わたしの生まれた街は伝統を重んじる、荘厳な古都であった。景観を保持するために統一された街並みは、道の端から通りを判別するに易くはないが、整然とした石畳はうつくしく道を作り上げている。誇れるものは多くあったが、特に紅葉は街の名に相応しい色合いで、秋になれば彩豊かな街並みを見に多くの観光客が押し寄せる。盆地なので夏は暑く冬は寒いが、時間の流れのひどくゆるやかなその街を、わたしはこころから愛していた。
 そんなわたしの帰る先は、物心ついたときからいつも決まって兄代わりの勤めるジムであった。ジムリーダーを任されている彼は忙しく、特別わたしを構うことはなかったけれど、ちいさな子供がひとりの時間を持て余して彼らを頼ることを、ジムに携わるひとびとは誰ひとりとして迷惑がったりはしなかった。
 遡れる限りの記憶を辿っても、父母と過ごした親子らしい時間というものはあまり存在していない。家族としての有り様を疑ったことはないけれど、仕事を第一に据えて邁進する彼らであったため、日常にその姿は殆ど登場しなかった。だから幼いころのわたしの記憶は暗闇に包まれたジムのなかにいるものが多いし、また同時にそのあたたかな孤独を好ましく感じていた。
 古い建屋は修繕を重ねながら、けれどもバトルに耐えうるだけの強度を備えている。家よりもずっと居心地の良いその場所に入り浸っていると、挑戦者と対戦するジムトレーナーや、ジムリーダーとしての彼の姿を見る機会にも恵まれた。危ないから下がるようにと言われた距離からでは対戦前後の会話はあまり聞こえない。わたしに理解できるのは、彼が挑戦者と二言、三言交わしたのちに、背後のボールケースから戦闘に出すポケモンを選ぶということだった。そして彼はそこそこの確率で敗北し、その手に握る幻影を挑戦者であった相手に渡してしまう。
 わたしはそれを見るにつけ、ただ漫然と、早くわたしが強くなって彼を助けなくてはと思うのだ。

   ◇

 いくら両親が多忙だからといって、会話をする機会が全くないわけではない。就寝前の時間をリビングのソファで過ごしていれば、帰宅した母が熱烈な頬ずりと共に登場する。まだ生ぬるい鍋を温め直しながら明日の予定を確認する彼女をカウンター越しに見つめつつ、わたしはおずおずと切りだした。
「わたし、ジムトレーナーになりたい」
 十歳になれば、トレーナーカードを発行してもらうことができる。自分のポケモンを大人から譲り受けて、あるいは仲良くなったパートナーをボールに収めて、そうやって旅に出ることを許されるようになる。誕生日を心待ちにするスクールの友人たちは、次の春を迎えればもう同じ教室で机を並べることはないのだ。そしてわたしも、その道を選びたいと思っていた。
「あなたひとりでポケモンのお世話できへんやろ」
「そんなことない」
「お父さんもお母さんも何にも教えてあげられへんし、手伝われへんのよ」
「わかってる」
「あなたが本気でなりたいと思っているならお母さんも応援したいけど、今までそんなこと言わなかったじゃない」
 疲れの滲む顔にそれ以上言葉を連ねることができなくて、わたしはそっと口を噤んだ。ふしぎそうに首を傾げる母であったが、美味しそうな匂いを漂わせ、白い湯気をくゆらせる手元の鍋がぐつぐつと主張をはじめると、すぐに意識はわたしから離れてゆく。おたまをぐるりとかき回す姿から目を逸らして、静かに自室へと戻ることにした。
 ひんやりとつめたい布団が、火照った頬をさらりと撫ぜてくれるようだった。

 十歳を迎える年には初等教育の最後に進路を決める三者面談がある。教室の前で順番を待つ母のなかで、わたしはすっかりそのまま進学することになっているようだった。どうして背中を押してくれないのと喚きたい気持ちはあったけれど、反論をするのは億劫で、ただ笑みだけを返しながら担任が名前を呼ぶのを待っていた。
 教室に入ったわたしたちにそっと差し出されたのは、事前に提出した希望調査の紙だった。進学のしの字もないそれを見て、母と担任が会話を重ねていくのをぼんやりと眺める。まず母は、ポケモンを譲り受ける伝手がないと言った。そして次に、仮に何らかの方法でポケモンをもらったとして、我が家にいのちがひとつ増えるのに、旅に出るまでの一番手のかかる時期に自分たちは協力することができないと言った。そもそもジムトレーナーというものは一握りの優秀なトレーナーが就ける職業で、今の今までろくにポケモンに触れたことのないわたしでは難しいだろうと続き、そこに至るには死ぬ気で努力をしなくてはならないし、この子にそれは無理だろうと結ばれた。母の口から飛び出したそれらすべては、わたしが十歳で旅に出ることを認めるものではなかった。
 結局わたしは気持ちで負けていたのだ。いくら憧れを語ろうと、やる前から否定ばかりが積み上がっていくことに、幼いわたしは疲れていた。
「お母様もあなたが本気で目指していることを行動で示せば解ってくれるとおもいますよ」
 俯いて何も語らないわたしを見かねた担任が、気休めにもならない言葉で慰める。
 証明なんてしなくても、旅に出られる級友のなんと多いことだろう。学童代わりに在籍しているトレーナークラスでは、まだ見ぬパートナーの話や旅先の出会いなどといった夢であふれているというのに。
「そうやね。あなたが本気やってお母さんに見せてれるんやったら、いくらでも応援するわ」
 耳障りのいい言葉で譲歩したように見せかけて、わたしの道はそのとき確かに閉ざされていたのだ。

 とはいえ、何もしなければずっとこのままだ。当時街にはポケモンと触れ合えるような場所はなく、自分がポケモンのお世話を恙なく完遂できることの証明は容易に達成できるものではなかった。すっかり困り果てて近所の兄に相談すると、少し考える素振りを見せた後、彼の控えのポケモンのお世話を手伝わせてもらえることになった。
 ポケモンにはそれぞれ特徴があり、気をつけなくてはならない事柄は相手によって種々様々だ。たとえば、地面に穴を掘って暮らすサンドなら、部屋の端にでも乾いた砂を用意しておけばそれでいい。美しさで人気のあるロコンであれば、その外見を磨くためにはこまめなブラッシングがかかせない。彼の持つゲンガーたちはそういった意味では一切手のかからないポケモンだった。ゴースの纏うガスに気をつけなくてはならないとか、ゴーストの舌に舐められると下手をすれば命に関わるとか、そういった注意点は存在するが、彼ら自身もそれについては理解していて、ちいさないのちを摘み取らない努力をしてくれる。
「お願いゲンガー、お皿ひっくり返さんとって」
 けれども、元来いたずらのすきなゴーストタイプである。冗談では済まない部分に対しては配慮をくれたが、それ以外については厳しかった。彼に言われた通りのポケモンフーズを用意してもそっぽを向かれ、呼んでも出てこないとおもえば次の瞬間には影のなかから驚かされたりする。ゲンガーたちとの触れ合いは難しく、ほどほどにするよう彼に窘められても、彼らはあまり聞き入れるそぶりは見せなかった。けれどもそれは、嫌悪や侮りからもたらされるものではない。わたしは楽しんでいたし、学んでもいた。まださほど応用はきかないけれど、必要なことをすこしずつ理解して、そうすればいつの日かわたしにもポケモンのいる生活が約束されるのだと信じていた。毎日疲れ果てていたけれど、自身に欠けているものを忘れるほどに充実していた。
「あなた完全に舐められてるやないの。大怪我する前にやめといた方がええんちゃう?」
 普段なら嬉しい出来事は、こんなときにばかり起こるのだ。
 めずらしいことに早く仕事が終わったのだという母が、家にいないわたしをジムまで迎えに来て言ったのは、相も変わらず諦めを促すものだった。ゲンガーたちのいたずらで真新しい制服のスカートからは絶えず水滴がこぼれ落ち、足元にはちいさな水たまりができている。ぶるりとからだが震えるのは、ゲンガーの影響でもかぶった水の影響でもない。
 胸のなかを渦巻く衝動が、今にも殻を突き破って出てきそうだった。

 わたしは自分のポケモンがほしかった。かれらと共に生きて、苦楽を分かち合う家族がほしかった。誰もいない家の扉を開ける一瞬の空虚を、輝くよろこびに変えたかった。
 母の手にひかれて帰ったわたしは、けれど次の日も懲りずにジムへと顔をだした。昨晩は母から話を聞いた父もわたしを心配して引き止めたがっていたが、まだ頑張りたいのだと強固に主張すれば、押しに弱い父は引き下がる。通い慣れた道をぬけ、重たい木製の引き戸をひくと、それは古めかしい音を立ててわたしを迎えいれた。
 ジムに入ってすぐに床から生えてきたゲンガーが、おおきなくちをあけてわたしを驚かす。最初は逐一からだをふるわせていたこれにも、そこそこ長くなるお手伝い期間ですっかり慣れてしまった。彼らなりの歓迎は、わたしの常識とはすこし違う。
「こんにちは、ゲンガー」
 わたしの挨拶にげんげろんと返したゲンガーは、きのうわたしの上に水をひっくり返したこだった。いつもよりもわたしを気にして周囲をぐるぐる浮遊する彼は、どうやら帰り際のことを気にしているようにも見える。
「だいじょうぶやよ。ありがとうね」
 にこにこ笑っててのひらを向ければ、ゲンガーは嬉しそうにからだを寄せてきた。もしかして今日はたくさん撫でさせてくれる日だろうかと期待したところ、それを感じ取ったのか次の瞬間にはまた床板にするするとのみこまれて消えてしまう。つれないやつめとひとりごちると、笑い声だけが響いて返ってきた。

 ジムの奥で照明の調整をしていると、遠くからひとの話す声が聞こえた気がした。挑戦者の来訪だ。そっとジムリーダーの顔をうかがえば彼がひとつ頷くので、わたしは昔から変わらぬ定位置で暗闇に紛れてフィールドを伺う。彼の前に広がるそれはほのかな明かりに照らされて、ぼんやりとその全貌を浮かびあがらせていた。
 ほどなくして、対戦相手は現れた。朗々と名乗りをあげるその声は、わたしにも聞き覚えのあるものだ。共に過ごした記憶は少し古くなった。出身地だからこそある程度実力を積んでから挑戦したかったのだと語るその挑戦者は、最初にガーディをくりだした。
 仄暗い感情がじりじりと喉元までせりあがる。フィールドで火の粉が舞い上がれば、わたしを飲みこむ暗がりが、より深さを増していくような気持ちになる。気持ちは高ぶっていくのに、感じる温度は驚くほどつめたかった。
 はやく旅に出なくてはならない。目をまわしながら地面に倒れるゲンガーが、わたしの焦燥を駆り立てる。一昨日にはわたしのおやつをかっさらっていってしまった彼が赤い光に吸い込まれてゆくのを目で追いかけると、一瞬の間をおいて、ボロボロになったガーディと子供が咆哮をあげた。
 どうして、子供の目の前に立つのがわたしではないのだろう。その侵攻を阻止する役目を担うことができないのだろう。どうして、彼は本当は強いはずなのに、こんなにあっさりと負けてしまうのだろう。
 その証を、どうしてすぐに年端もいかぬ子供に明け渡してしまえるのだろう。
「わたし……わたしが、助けたいのに!」
 とうとうわたしに気づかずに背を向けた挑戦者を見送るよりも先に、裏口からこっそりと抜け出して庇のしたにうずくまる。噛んだ口唇をそっとほどけば、煮詰まった本音が空気を揺らす。視界の端に映りこむ影からゲンガーが飛び出してきたのでゆるゆると顔をあげれば、その大きな紫の向こうにまばゆい理想が立っていた。
 彼のひとこと目はありがとうだった。曖昧な笑みを浮かべて、けれどそれに続くのはわたしがあまり聞きたくない逆接だった。
「自分の道を決めるのに、他人を理由にしてはいけないよ」
 落ち着いた声は、けれどこの静寂のなかでは聞き間違いようもない。わたしは唯一支えにしていたものの一切を、他でもない彼自身によって否定されてしまったのである。まっすぐに見つめた瞳の奥からは、なんの感情も読み取れない。
「なんでそうやって、誰も認めてくれないの!」
 衝動のままに声をあげて、そのまま彼の脇を抜けて駆け出した。
 ぜんぶ、ぜんぶきらいだった。

   ◇

 衝動的な行動は日を追うごとに後悔を呼んだが、だからといって積もり積もった不平不満は一朝一夕では拭えない。今は誰にも会いたくなかったし、なんの言葉も聞きたくなかった。学校帰りの避難所はジムから三十七番道路へと変わり、ポケモンなしで草むらに入ってはいけないと口をすっぱくして言われた大人の教えは反抗心から守ることをやめた。
 野生のポケモンは人里に馴染んで暮らす個体とは違って警戒心が強い。最初に歯をむき出しにして威嚇するコラッタにでも出くわせばわたしも怯んで考え直したかもしれないが、幸か不幸か初めて姿を見せた草むらの住民はわたしに興味など示さなかった。
 初めて目にしたポッポは少し離れた場所で羽ばたいていた。足音に気づいて一瞬振り返ったような気もしたが、ポッポの注意はずっと草むらの中にある。獲物を狙って起こした砂煙は風に乗ってわたしのところまで届き、すこしむせることもあったけれど、目を閉じていた間に目的を果たしたらしいポッポは矢張りそのまま颯爽と飛び立っていく。
 それからすこしすると、今度はピジョンがどこからか飛んできた。しばらく旋回するのを何事かと見守っていると、唐突に木に向かって飛びかかるので、その勢いにびくりと肩が跳ねた。次の瞬間、するどいツメに捕らわれ、葉陰から引き摺り出されたタマタマが、悲痛な声と共に運ばれていく。正直見たくない景色だった。欠けた二匹は明日になれば補充されているのだろうが、元の二匹はもう二度と戻ってこない。嵐が去って同じ木からぶら下がるイトマルには本能的な恐怖が勝って近づくこともできなかった。
 一体くらい仲良くなれる子がいるのではないかとは浅い考えであったが、そう強く警戒しすぎるほどでもないとわかったのは収穫だった。そうして達成感を覚えたところで、わたしはすこし休憩することにした。思っていたよりも緊張していたらしく、疲れがどっと押し寄せたのだ。イトマルのいない木を探して根元にゆっくり座りこめば、一気に力が抜けていく。今思えばまだ草むらを脱したわけではないというのに、まったく危機感の足りないことであるが、先例がわたしから警戒心を奪ったのである。ポケットからおやつ代わりの木の実を取り出して齧っていたら、物欲しそうにこちらを見つめるロコンが現れたので、いくつか分けることにした。てのひらに乗せて差し出した分のみではなく、引っ込めていた自分用の方まで引き出されたのは予想外であったが、急かすように腕を叩くロコンの尻尾はもふもふで、今まで望んでも得られなかった体験で胸がいっぱいだった。夢心地で街へ戻る頃にはすっかり日が暮れてしまっていたが、例のごとくそれを咎めるひとはどこにもいなかった。

 次の日は街の西にある三十八番道路へ行ってみることにした。場所を変えたのは二日連続でピジョンの捕食を見ることになればトラウマになりそうだと思ったからだ。調べた限りではこちらの道にピジョンはほとんどやってこない。草むらの近くをうろうろ彷徨っていると、中からタマタマが転がり出てきたので、わたしは思わず周囲を確認してしまった。すこし経っても羽ばたく音の聞こえないことに安堵して、ぴょこぴょこ跳ねながら近づいてくるタマタマに視線を合わせたくてしゃがみこむ。
「こんにちは」
 とりあえずの挨拶は何を考えているのかよくわからない眼差しに黙殺されてしまったが、とりあえず敵対心はないらしい。ポケットからオレンの実を取り出して差し出してみると、気難しい顔をした彼らがうれしそうに齧りだしたので、知らず識らずの間に頬が緩んでいく。わたしと彼らの六つの顔とが仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。

 まいにち欠かさず学校の帰りに三十八番道路へおもむけば、真っ先にタマタマが姿を表すようになった。遠巻きにしていたコラッタたちもわたしの存在に慣れたのか、すこしずつ距離を詰めてくるようになったが、タマタマの勢いはいつも群を抜いている。お土産代わりのきのみをとりだせば、近くにいたポケモンたちが一斉に押し寄せる。カゴの実だけは取りわけて、そっとタマタマに差し出せば、彼らのまとう空気はぐんとやわらかくなった気がした。一緒におやつの時間を楽しんでいて気付いたが、どうやらタマタマは渋い味がこのみであるようなのだ。はじめてそれを与えたときの輝かしい表情は、まだ彼らの表情をうまく読み取れないわたしでもすぐに理解することができた。手付かずで放置されるクラボの実を口に詰め込みながら、楽しそうに会話をしているらしい彼らに癒されていた。野生のポケモンとはこんなにも接しやすいものなのかと錯覚するほどに、触れ合うポケモンたちはみな穏やかであったし、見るからに弱そうなこどもを見ても襲いかかったりはしなかった。あまりにトントン拍子でうまくいったものだから、すこし、油断をしてしまったのだ。
 がさりと草むらをかき分ける音がわたしの耳に届いた。タマタマたちに向けていた笑顔をそのままに振り返ると、そこにはひどく苛立った様子のケンタロスが今にも駆け出しそうな体制でこちらを見ていた。蜘蛛の子を散らすように逃げていくコラッタを視界の端に捉えるが、わたしのからだは動かない。逃げなくてはならないと頭ではわかっているのに、まるで根が生えてしまったかのようで、立ち上がることすらできないのだ。
 地面を蹴り、勢いをつける蹄。起こる砂埃は次第に高くのぼり、勢いを増していく。飛び出す瞬間がひどくゆっくりと見えた。わたしは咄嗟にタマタマの方を振り返る。逃げることなくその場にとどまる彼らは怯えた顔をしているのに、どうしてか逃げようとはしないのだ。
「タマタマ、はやく」
 ここから離れて。そう続く予定だった言葉は続きを奪われたまま、もう飛び出すことはない。近づく足音に身を縮ませた次の瞬間、わたしとケンタロスの間には光でできたふしぎなかべが立ちふさがり、その衝撃を受け止めていた。

 そのときのわたしは必死だった。学校の図書室で調べたタマタマについての記述を思い出しながら、この辺りで出現するタマタマが覚えていると思しき技を必死で考える。わたしを助けてくれたのは、おそらくリフレクターだろう。きっと、メガドレインはまだ覚えていない。ケンタロスはノーマルタイプだから、タマタマは決して優位には立てない。
「タマタマ、さいみんじゅつ!」
 咄嗟に出した指示は、けれどもすんなりと受け入れられて、からからと短い鳴き声で答えたかれらの発する何かが波紋のように広がってゆく。それは確かにケンタロスに届いたように見えたけれど、昂った相手には効果がないのか一向に大人しくなる様子はない。攻撃を受けたことでさらに怒りを募らせたのか、再び助走をつけてわたしたちの方へと飛び込んでくる。わたしをかばうように立つタマタマは、壁越しにその衝撃を食らったようだった。
 ぼろぼろになっていくタマタマを、わたしは抱えて逃げることもできない。やどりぎのたねを植え付けて、隙をついてすいとるを指示しても、タマタマの体力がなくなるほうがずっと早い。涙で滲む視界では、何にも助けられそうにない。何度袖で拭っても次々に溢れてくるそれに、本当に泣きたいのはタマタマのほうだと叱咤する。
 低い声で唸る相手が恐ろしかった。皹だらけの壁はきっと次の攻撃を受けきれない。向かってくる足音を聞きながら、せめてこの子だけでもと、六匹の種を引き寄せた。
「ゲンガー、きあいだま」
 聞きなれた声だった。滲む感情の汲取れぬ落ち着いた声は、この状況にあって驚くほどに静かで、粟立ったこころに安堵の炎を灯す。何と話しかけていいか惑うわたしの横を通り過ぎ、一撃で倒れたケンタロスにかいふくの薬を使うと、いくらか落ち着いたらしいケンタロスがひと鳴きして草むらの奥へと姿を消すのを見送った。腕のなかのタマタマに視線を落とせば、ボロボロではあるものの意識はしっかりとしている。傷だらけのからだが痛ましくて、なにか痛みを和らげるものはないかとポケットを漁れば、指先にこつりとなにかの当たる感触がする。そういえばきのみを持っていたのだと思い出して、慌ててオレンの実を取り出した。小さく割ったそれをそっと口元に運べば、ゆっくりとした所作で食べ始める。
「さて、言い訳があるなら聞こうかな」
 振り返る彼を直視するのは怖かった。おそるおそる視線を上げていけば、そこにはジム戦でよく見る彼の姿がある。久しぶりに見る顔だ。そして意外なことに、そこに浮かぶのは、呆れでも怒りでもないようだった。
「きみが最近草むらに入っていたのは知ってるよ」
 彼の千里眼の前では秘密の行動などあってないようなものだ。何事も経験だと思って放置したのだと続けた彼は、それでもわたしのことをずっと気にかけていてくれたのだろう。だって、助力のタイミングが完璧だった。
「それで、きみはもう諦めようと思ったかい?」
「そんなんぜったいありえへん!」
 遮るように声を張りあげる。くちの端をほんの少しつりあげた彼は、けれどもそのままなにも言ってはくれない。沈黙がいやで身じろぎすると、腕のなかのタマタマがちいさく鳴いて自らの存在を主張した。するどい六対の瞳がわたしを見つめている。塩辛い戦闘がじわじわとよみがえり、いのちの重みを思い知る。
「わたし、このこと一緒に強くなりたい」
 ぽろりと零れたのはきっと最初の一滴だった。絶えずわたしを包んでいた焦燥や怒りといった感情が、もはや隣人ではなくなったのだ。煮詰まった感情からするりと抜けだせば、そこにあるのは澄んだこころひとつだった。
「じゃあこれを」
 ころりとてのひらに乗せられたのは、赤と白のちいさなボールだった。だれかが握るのを眺めるばかりであったそれが、手のなかにある。渡されたそれと彼とを見比べれば、彼はやっと表情を崩してタマタマが待ってるよと小さく笑った。
「ほんまにええの?」
 間髪入れずに力強く鳴いたタマタマが、中央のボタンに頭をぶつけてボールを膨らます。この上ない意思表示だった。嬉しくて肩が震えるのに、耳の奥に残る母の声が、最後の一線にブレーキをかける。
「大丈夫だよ。姉さんが何か言ったら僕も一緒に説得するから」
 その言葉に、一体どれだけ励まされたことだろう。
 こつりと軽い音の後にあかあかとした光が滲んで、わたしはその日、世界を得たのだ。




 真新しいスニーカにすっぽりと足を包む。すこし派手な色をしていたが、いつか進化する相棒の葉とおそろいだと思ったから何も迷わなかった。最低限の荷物を詰め込んだリュックを背負って玄関を振り返れば、そこには紙袋をひとつ抱えた母と、心配そうな父が立っている。
「ほんまにそれだけで大丈夫なん?」
「うん。必要なものがあったら現地調達するから」
「気をつけるんやで」
「うん。ありがとう」
 きりっとした顔で仕事に打ち込む両親しか見てこなかったから、こんな両親の姿は新鮮だった。背中を向けて外へ出ようとすれば、母が持っていた紙袋をわたしに持たせたので、すぐに中身を確認する。抱えるほど大きいそのなかには使い捨ての容器がいくらか積み上がっている。一番上のそれにはわたしのだいすきな卵焼きやふかふかのおにぎりが詰め込まれていた。火照る頬を、ひとすじの風が撫ぜてゆく。
「じゃあ、いってきます」
 わたしはきょう、旅に出るのだ。


   ◆


 潮の香りがすっかりと遠ざかり、遠目には幾重にも屋根の連なった塔が見える。暖かい景色のなかで青い瓦は際立っていた。道端の切り株に腰掛けて、街路樹のとなりに相棒を出すと、彼は嬉しそうに首を揺らした。ぐるりと周囲を見渡すと、きれいに整えられた草むらでは野生のポケモンたちがめいめいに駆け回っている。
「ナッシー、紅葉がきれいやよ」
 街の方を指差せば、燃えるように鮮やかな景色がわたしたちを出迎える。
 ぱやんぱやんとふしぎな音で答えるこのこは、出会った頃よりもうんと大きくなった。長い首を折り曲げて耳を傾けなくては、わたしの声もろくに届かない。
「お母さんたち元気したはるやろか」
 ポケットのなかの真新しい身分証は、わたしとナッシーがこれまでひた走ってきたことの証明だ。ひとつ、ふたつ息を吸った後、相棒をボールのなかへと戻す。大きな彼を街中で連れ歩いていては、きっと道行くひとを驚かしてしまう。
「でもまずはマツバくんところからやで」
 ボールに向かって声をかけると、うっすらと透けた赤いドームから、彼がしっかり頷くのが見えた。
 街の入り口はもうすぐそこだ。
「あのひと、最近お弟子さん取らはったんやって。どんなひとなんやろな」