望郷

※自然災害・および被災の表現があります。フラッシュバックの懸念等、ご自身とご相談の上判断ください


 木材のにおいが故郷の牧柵を思い起こさせたから足が向いた。近づいてみたら、妙に精悍な顔つきで佇むガーディがいたので気になった。彼が常ならば選ばなかったであろう選択をしたのは、そんな他愛のない偶然が重なったからである。

 残寒未だ厳しく、陽の光があってもなお肌寒い日が続く。今日に至っては雪すらちらついていて、人の通りはさほど多くないように見えた。
 その店は、外観はおとなしいカフェのような見た目をしていた。彼の活動拠点であるシュートシティに属してはいるものの、普段なら足を運ばないような外れの方に位置している。軒先に佇むちいさな用心棒は吠えることもなく、ただじっと彼の様子をうかがっている。ほんのすこし視線をずらせば、隣にはランチメニューの記載された看板が立ててあるのが見えた。とびこんでくる馴染みのない料理名の並びに、ここが他地方の郷土料理を売りにした店であることがわかる。扉越しに感じる雰囲気から、バトルカフェのように勝負を仕掛けられる場所でもないらしい。途端、青年は自分の中にあった興味がみるみる萎んでゆくのがわかった。小洒落た店とは縁遠い自覚もある。微動だにしないガーディに別れを告げてきっぱり踵を返す。そうして後に待つ仕事を思い浮かべながら、職場への帰路をゆくつもりだった。
 しかし彼はそのときふと、そういえば今日はまだ食事を摂っていなかったことを思い出す。簡単につまめるものの売っている店はどこだったかと思案しかけて、他の店へ移動する方が却って時間の無駄だろうと判断する。そうなるとあれこれ悩む時間すら勿体なくて、彼は背中を向けたばかりの扉に向き直った。
 二転三転する青年を、入り口のガーディはやはり何も言わずに見つめている。人好きのする笑みでその視線に応えると、彼は食べたいものの定まらぬまま店内へと足を踏み入れた。入り口のマットが足音をすいこむけれど、店主の反応は素早いものである。入り口からまっすぐにカウンター席が五つと、右手にはまた奥に向かってテーブル席が三つ。時間がいいのか悪いのか、彼の他に客は一人と一組のみだった。奥で鍋を振るいながら、開いている席をすすめる彼女にひとつ頷いて、彼は手近なカウンター席へと腰掛けた。
 先客はどちらも常連であるらしく、客同士も親しげに言葉を交わしている。どうやら一組は先ほど来店したばかりのようで、軽い挨拶の後、最近休んでいた理由を店主に聞いている。里帰りかと尋ねる声に首を振って、旅行に行っていたのだと返す声は調理の所作に伴って時折弾むが、その感触はやわらかい。
「途中季節研究所を見学させてもらって。季節によって姿の変わるポケモンがいたんですけど、かわいいなあって見てたらガーディが拗ねちゃったんですよね」
「あはは! 心配せんでもマスターの一番はきみやって!」
 いつの間に戻ってきたのか、見れば先ほどの看板ポケモンがカウンター席の女性の足下でごろごろと喉を鳴らしている。慣れた手つきで頭を撫ぜる手にすり寄って、気持ちよさそうに目を細めていた。
「あっ、があちゃんそれどうしたん?」
 女性の視線の先には黄色い花のあしらわれたミサンガのようなものがついていて、もふもふの毛並みに埋まるようにして咲いている。
「ふふふ、それね、ガーディの季節の姿なんです」
「なるほどなあ! めっちゃ可愛いで、よかったやん!」
 打てば響く会話がなんとも言えず心地よくて、入店時にはあれほど気にした効率を忘れ、彼は何をするでもなくただぼんやりと耳を傾けていた。視界の端にそっとお冷が用意されて、注文も決めずに入店したことを思い出す。目の前に立ててある緋色の冊子を手に取って、見やすく並んだ文字と写真を見比べる。
「お兄さん、初めての方ですよね。何か気になるメニューはありましたか?」
 店主の気さくさが自分に向く想定をしていなかった青年は、定型文以外で話しかけられたことにすこしばかり驚いた。しかしながら、慌てて開いたメニューを眺めてみても、自分が何を食べたいのかはよくわからない。
「それが、どうにも決まらなくて。……そうだ、店主のおすすめを聞かせてくれないか?」
「そうですねえ……苦手なものは特にないですか?」
「ああ。飲み込めるものならなんでも食べる」
「あはは! でしたら、カントー定食はどうですか? いまの季節はうどのてんぷらがね、とってもおいしいんです」
「じゃあそれを頼む」
「はい。では少々お待ちくださいね」

 青年にとって食事とは、生命活動の維持に必要な栄養を得る行為に他ならなかった。多くの時間をポケモンとポケモンバトルに費やしてきた彼が好んでいたのは、ながら作業のできる片手で食べられるものや、飲むようにして腹に収まるものであった。味に意識を傾けることはほとんどなく、注意はほとんど戦略や育成論に傾けていた。寸暇を惜しんで実践を重ね、共に戦ってきた相棒たちとの対話を優先した。だからこうして食に迷い、一汁三菜の揃った膳を自ら選んだのは、実に久しい出来事だった。
 菜の花とたまごのスープ、何かいい匂いのするキャベツの漬物、筍が美味しい煮物、うどやその他きのみたちの天ぷら。ちゃんとした名前はわからないし、何が入っているのかもよくわからない。人参を見れば人参の名前よりも先に相棒のリザードンを思い出すし、自覚している限りではそれで困ったこともなかった。とはいえ、普段通りにするする喉に通してしまうのはなんだかとても勿体ないことのように思えて、彼は努めて時間をかけて租借した。方々に思いを馳せていると、カレーは飲み物じゃないんだぞ、なんて言って笑う弟の声が聞こえてくるようだった。

 青年が膳をきれいさっぱり平らげると、気配を察知したガーディが足早に近付いてくる。おおきな手のひらが彼を構えば、嬉しそうに転がってゆく。
「ガーディ、よく育っているんだな」
「お兄さんに言ってもらえるなら折り紙付きですね。この子は近所に住んでたおじさんが、わたしにって譲ってくれたんです。修業時代は心強い護衛でしたよ」
「修業?」
「ええ、料理の。十三のときに故郷を出て、いつか自分の店を持とうとおもって色々訪ねて歩いたんです」
「そうなのか。ガラルを気に入ったのかい?」
「ええ。住むならここがいいなって思って」
「はは、それは幸運だった」
 からからと笑いながら青年が立ち上がる。いままで気にも留めなかったが、厨房の奥にある窓から薄紅に染まる木が見えていた。薄化粧を施されて白く煌めく花々はやっと心地のよい気温になったとおもって綻んだだろうに、険しい寒気に晒されて、きっと肩透かしをくらった気分になったに違いない。
「花には不憫ですけど、神秘的な景色ですよねえ」
 視線の先に気づいた彼女が思わずといった体で声を漏らす。
 食器棚に向かう彼女の表情は、客席からは見えなかった。


 新しいことに着手して毎日が飛ぶように過ぎていく。今までと少しだけ違うのは、すこし余裕のある日の昼食に、気まぐれで入った郷土料理の店を選ぶようになったことだ。
「あ、お兄さんいらっしゃい。今日は何にします?」
「ああ、それなんだが……」
 常になく言いづらそうに口ごもる青年に、店主は首を傾げながら水を用意する。ややあって、メニューにはないんだがと前置くのに、店主はなるほどなと頷いた。店にはいくつかの裏メニューが存在していて、店主自身が用意したものもあるが、その発祥の多くはそのとき常連が食べたかったものである。ざっくりとした料理名や食材名を挙げてこれは作れないかと尋ねてくる声に、彼女が可能な範囲で応えていた料理はメニュー表に載っておらず、客同士が伝言ゲームのように教えあっているらしい。
「材料があれば作れますよ。何が食べたいの?」
「火山ハンバーグを作ってもらえないだろうか」
「少しお時間もらうんですけど、この後の予定は大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
「はい、じゃあおまかせください!」

 郷土料理という性質上、この店にはガラル出身ではない人間がよく集まり、そのまま常連化することが多いように見受けられる。それが、しばらくの間この店に通い詰めて感じた青年の感想だった。客同士も気さくに会話をするが、かといってそれを強要する雰囲気はなく、下品な喧噪もない。一見でも、地方出身でなくとも、居心地よくぬるりと居座ってしまうのは青年自身が証明するところであった。
 料理が出てくるまでまとまった時間のできた青年は、フライパンが勢いよく火を吹き上げるのを見つめながらガマゲロゲの育て方について思案する。今日は彼の他の客は一人。静かな音楽と調理の音だけが店内に響く。

 戦略を練っていると時間の経つのはあっという間だった。お待たせしましたの声を意識の表層で捉えると、注意は緩やかに現実の方へと戻ってゆく。
 さほど待っていたような感覚はなかったが、その匂いに気づいた瞬間急激に自身が空腹であったことを思い出す。正面に用意された平たい大皿の中央には、小ぶりなハンバーグを山に見立てて積み上げてあった。中央の空洞にはトマトソースを流し込み、すこし崩せば焼き目のついたとろとろのチーズが溶岩と一緒に流れ出すようになっている。麓にはこんにゃくなどの具材と一緒に炒めたご飯が敷き詰められて、真っ赤なソースとよく絡みそうだった。
「本当に名前通りなんだな」
「ふふふ、ひろく愛される家庭の味ですよ」
 店主が得意げな笑みを浮かべたところで、軽い木の扉が押し開かれる。生ぬるい風がするすると肌を撫ぜるのを感じながら、青年は雄大な火山へと立ち向かう。
「おっダンデさんもとうとう火山ハンバーグデビューだね」
「はは、おかげさまで」
 来店早々訳知り顔で話しかけてきたのは彼にこの裏メニューの存在を吹き込んだ張本人であった。ワイシャツのボタンをふたつ外して手で仰ぐ女性は、彼のひとつとんで隣へと腰掛けた。
「そういえばこの前出張でジョウトへ行ったんだけどさ、向こうで食べた火山ハンバーグにはコメがなかったんだよね」
「僕が実家で食べてたやつもお米は敷いてなかったなあ」
「あれっ、もしかしてこの五目ご飯みたいなのってマスターの創作?」
 彼女がおもむろに切り出すと、元々座っていた男性も手元の本から顔を上げて会話に加わった。なんとなく耳だけはそちらに傾けながら、彼は目の前の山を攻略することに専念する。実に挑戦し甲斐のある食事だった。
「ですです。こういう火山ハンバーグがあってもいいかなと思って」
「もう大歓迎! マスター、わたしも火山ハンバーグひとつ」
 流れるような注文に、最早これは裏メニューではないなと内心笑いながら、安全そうな位置にある外壁を崩しにかかる。どろりと溶岩が流れ出し、灰色の地へと広がってゆく。
「そういえばこれってモデルになった島があるんだっけ」
「そうですね。何年か前に噴火して町はなくなっちゃいましたけど」
「えっそうなの!? 住民は!?」
「事前に避難勧告が出て……全員避難しきった少し後に噴火したから、死傷者はいなかったみたいですね」
「それは……不幸中の幸いだね……」
「ですね。でも終息宣言が出るのに五年以上かかったから、今も島に住民はほとんど戻ってないって聞きました」
「マスター詳しいんだね」
「私の実家があるマサラタウンは当時避難所になっていたので」
「そうだったの」
 女性の相槌に、おそらく店主は頷いて応えたのだろう。匙ですくう手を止めてそっと顔を上げてみると、静かに微笑む店主と目が合った。少ししんみりとしてしまった空気を拭うように、明るい声が青年に向けられる。
「わたしにとって思い出の味なの。お兄さんにも何かある?」
「何だろう。オレは昔から食に頓着しなかったから……ああ、でも母さんの作ったコテージパイがすごく好きだったんだ。まだ小さい弟に取り分けてやって、競うように頬張って……はは、今思うとあまり行儀はよくないな。でもそうやって、一緒に食べるとさらにおいしかった」
 食事が楽しいのはもう何年振りになるだろう。茫洋とした記憶の海を泳いでもたしかな答えは見つからない。
 ふと窓の外を見やれば、緑に覆われた太い枝木のうえでココガラたちが羽根を休めていた。



 居住区のそう広くない離島に子供向けの娯楽は少ない。彼女にとり近所のおじさんはジムリーダーというよりもクイズ好きのおじさんというイメージが強かったし、彼がクイズショーのように仕立てたジムチャレンジはバトルに詳しくなくても楽しくて、近所の子どもたちに人気だった。
 彼女もまた例に漏れず度々ジムの世話にはなっていた。しかし、彼女の興味はポケモンを競わせることよりも、母の手伝いをするヤドランの方へと向いていた。当時ちょうど同年代の子どもが活躍していることが連日ニュースで取り上げられていたものだが、それでも憧れはトレーナーの道を極める方にはなかった。
 父は家にいない日の方が多かったが、母と食べる毎日の夕飯が大好きだった。いつかこの町を出ていこうという意識はあったものの、やっと両手の指で数えるのに足りなくなった歳の頃、当然具体的な展望はない。
 けれどもそのときがきたら、彼女はきっとこの味も一緒に連れて行くのだろうと思っていた。



 重たい揺れが頻発し、夜も眠れぬ日が続く。きれいに塗装された道が割れ、日常生活で必ず通る道が段々になっていることに気づく。近頃はジムへの挑戦者もなく、地面タイプで対策を練ったトレーナには出会わない。狭い島ではどこかでバトルが起こるとその余波を感じる瞬間もあるのだが、ここ数日の変化の原因は、今回に限ってはそういった理由ではなかった。
 研究者とその家族が主な人口を占めるこの町にはろくな観光資源がない。けれども時折、ジムチャレンジとは別に中央に存在する島の象徴に向かって厳しい挑戦を求めてやってくる者が存在する。ただここ数日は入場規制のため、そもそも外からやってくる人間自体がいないという状況だった。大小様々な爆発音が耳に馴染む隣人となってから三日ほど経ったある日、わたしたちはとうとう島を出ることになった。
 普段は現地調査に出かけてばかりいる父も、このときばかりは家族と行動を共にしていた。臨時船がマサラタウンへ向けて出発するというので、最低限の荷物をまとめて乗り込む。張り詰めた空気のただよう空間では、腕に抱えたガーディだけが、わたしのこころをやわらかく撫ぜた。

 初めての船旅は散々なものだった。ふもとの木々が薄紅のつぼみをほころばせ、肌寒さを残しながらも新たな生命の息遣いが聞こえてくる頃合いだったが、一気に下がった気圧は海を大きく波立たせ、わたしはそのとき着ていたお気に入りのカーディガンを船上でゴミに変えた。当時の船でおよそ一時間半程度の距離だったが、不慣れな子どもには異様に長く感じたものである。
 大変だった記憶だけが先行していて他はすべてが朧げだが、たどり着いた海辺が存外整っていて、船着場には存外多くの人間がいたことだけなんとなく覚えている。

 その町はとかく研究所が有名で、その他の印象というのは極端に薄かった。ここには高名な博士が住んでいて、そのお孫さんも一度はセキエイリーグのチャンピオンになったことがある。その次のチャンピオンも雲隠れしたとはいえこの町の出身だし、悪名高いマフィアの解散に貢献したのもこの人物と聞く。特に最後の人物は殿堂入り直後のインタビューしか声を聞く機会はなかったが、口を揃えて語るのはマサラタウンがとても穏やかな土地であるということで、彼らの言葉からわかるのは彼らがそれぞれの形で故郷を愛しているということだった。
 コミュニティセンターに暮らしの拠点を置いてから、飛ぶように時間は過ぎてゆく。公共機関での生活に母はすこし心労を重ねたようだが、わたしはまだ元気だった。毎日ガーディと散歩に出かけていると、新しい土地にも見慣れた景色ができてくる。生まれてからこの方一度も外の町を見たことのなかったわたしは、海の見えない光景が存在することが未だ身に馴染まず不思議だった。
 研究所の裏庭を抜けて海のある方へ歩く。足元を控えめに彩る小さな花々は雑草とは思えぬほどに愛らしい。研究所で世話をしている草ポケモンたちはガーディに近付くのがすこし怖いようで、遠巻きにわたしたちの様子を窺ってくるけれど、小さく手を振ると嬉しそうに跳ねるのがわかった。木製の門を抜けて、広い道をゆく。小高い丘を駆け上り、置き去りにした故郷のある方を振り返る。黒い煙がもくもくと立ち昇り、風に流されてゆらめいている。
 座り込んだわたしのおなかのうえに、ガーディのちいさな身体がもぐりこんだ。ぬくい背中に頬を埋めて、町を縁どる淡い花に視線を落とす。
 褪紅にはらはらと降り積もる灰塵が、季節外れの雪に似ていた。