永遠になる日

 思い出せないことがある。
 共に過ごした記憶は遠く、声や顔、そこに滲む色や温度、凡そ彼に纏わるあらゆるものは、もはや何ひとつはっきりと浮かべることができない。
 彼は、それがどうあっても不可避であることを知っていた。確かに握りしめていたはずのそれがひとつ、またひとつと欠落していくことを、下手をすると忘れたことにすら気づくことができないようなそれを、次々と手のなかから零していくのがただ恐ろしくてならなかった。

 彼がそれを聞かされたのは、それまでの長い空白の時間に比べればほんの僅か前のことだ。警察官になると言っていた幼馴染たちは大学を出て、警察学校を出て、そしてそれからしばらく経つと揃って音信が途絶え、彼はひとり取り残された寂寥感に足をすくわれる日々を送ることとなった。
 突然連絡のつかなくなったことに対して、恨み言のひとつも吐かなかったと言えば嘘になる。これまで傍に居るのが当たり前の二人だったのだ。苦楽を共にして、何だって相談できる大切な友人だった。最初は何か大きな事件に巻き込まれでもしたのかと心配をしたものであったが、その不安は時間を重ねるごとに変質を遂げ、あるときには情のない行いだと憤慨したこともある。けれど結局は、彼らに対する信頼が勝った。
 いまはただ、またなと言って別れた昨日の続きがいつかやって来ることをただ願っている。
 三人で過ごした眩い過去をよすがにして、彼は息をしていた。

   ◇

 肌寒さがほんの少し顔を覗かせ始めた頃、その日は不意に訪れた。繁忙期の荒波に揉まれた帰り道。空が下ろした重たい濃紺の幕の前に、まるで待ち合わせでもしていたかのような自然さで佇む人影は、彼の中の記憶と同じ姿をしている。
「……零?」
「うん。久しぶり」
 いつか彼が望んだように、幼馴染みは彼の前に戻ってきた。次に会えたときは色々と言いたいことがあると、そう思っていたはずなのに、いざその瞬間が来てみれば言葉なんてどこかへ吹き飛んでしまったようである。
「……、本当だよ。お前ら、全然連絡つかないから」
「……そうだったな」
 喉に貼りついた言葉をなんとか絞り出せば、彼の幼馴染みは僅かな躊躇いの後、短い言葉で頷いた。しみじみと呟く幼馴染みは、彼が普段そうしているのと同じように、過ぎ去った日のいつかを思い出しているらしかった。
「元気だった?」
「ああ、うん。それなりには」
「お前一人? 景光は?」
 二人で一緒にいなくなったのに、いま目の前にいるのはたったひとりだ。月明かりの下でぼんやりと煌めく金色の傍に、彼が足りないもうひとつの影を探していると、幼馴染みが瞬きひとつぶん、身体を強張らせたのがわかった。かたく結んだ唇を静かに解いて、吸い込まれそうなくらい澄んだ瞳で彼の目をじっと見る。
「お前に伝えなきゃいけないことがある」
 眼差しも声色も、鋭くて痛い。
 その音が彼の希望を打ち砕くことは、続きを聞くまでもなく明らかなことのように感じられた。

   ◇

 彼の人生に再び現れた降谷零は、それまでの音信不通が嘘のように小まめな連絡を寄越した。初めはどうにも実感が湧かなかったが、ひと月も経てば日常の半分が戻ったことを実感する。けれども、それは同時に二度と戻らないもう半分を意識させることになった。二人の思い出が増えることで、三人の記憶が加速的に失われていく。
 幼馴染みの片割れは、周囲の記憶の中でしか生きられない。そしてそれを持ち続けている人間は、もう随分と限られている。拾った傍からぼろぼろと取り零していくそれを、それでも諦めることはできなかった。
 けれど、そんな彼を知りながら、降谷は残されたふたりに存在する未来の話をする。いまを生きている降谷はどこまでも正しく、眩い光を放つが、三人で過ごした日々を単なる過去の思い出として昇華できない彼はそれを許容することができないのだ。

   ◇

 大きな木を切り出して作られたカウンターは温かみがあっていい匂いがする。社会人になってからは珍しい、幼馴染みからの誘いを受けた彼は、細かな細工の施されたお猪口を傾けて昔話に花を咲かせていた。初めに日本酒を頼んだときに選ばせてもらったそれは、黄色と緑で色違いのお揃いだった。
「どうしたの?」
 懐かしそうに相槌を打つ降谷が難しい表情を浮かべる瞬間がある。彼は楽しそうに話をしていたが、幼馴染みの違和感を見逃すことはしなかった。疑問をそのまま口に出せば、幼馴染みは少し口篭ったが、ややあって腹を決めたようであった。
「そんな風に過去に固執するな」
「なんでお前がそんなことを言うの」
 反射的に声を荒げた彼は、けれど直ぐに我を取り戻した様子で手元のお猪口に視線を落とした。降谷にとっては過去のことだ。降谷にとっては、もう何年も前の出来事だ。でも、彼にとってはそうではない。ゆらゆらと揺れる水面は、落ち着かない彼の心のようでもあった。くしゃりと歪んだ表情にはただ深い悲しみだけが滲んでいる。
 俯いたきり、何も話さなくなった彼を見て、降谷はカウンター越しの店主に話しかけた。空のお猪口をひとつ受け取って二人の杯の間にそっと並べると、残っていた酒をなみなみと注ぐ。自分の手元にあったそれを、新しい青にそっと合わせて、静かに唇を湿らせた。
「ほら、お前も」
 ただ頷くことしかできない彼が、降谷と同様にして酒を煽る。初めに飲んだときとは違い、そこには僅かに塩の味が混ざっている。支えるように背中を叩く手のひらが暖かい。潰れても面倒を見てやるという幼馴染みの言葉を聞いたのが、最後にはっきりと残っている記憶であった。
 机に映る三色の鮮やかな影が、瞼の裏に焼きついている。

   ◇

 思い出せないことがある。
 あの日、あの深い夜のなかに煌めく金色を見つけた日。過去にすがり続けた彼が、その光景は真実過去にしか存在しないのだと突きつけられた日。
 いまはもうはっきりと浮かべられるはずの幼馴染の片割れの顔。果たしてあのとき、降谷零はどんな表情で残ったひとりを見ていただろう。

 閉め忘れたカーテンのレースの隙間から見える藍色が、しだいに淡くなってゆく。シーツの波に溺れながら、彼はとうとうそれを飲み干した。
 明けない夜を望んでいるのに、どうあっても明日はくる。
 なぜなら、彼は生きているからだ。


2019.10.04
twitterでの作者当て企画参加作品
書き出しお題「思い出せないことがある」