踏青

 人生は一度きりだからこそ精一杯生きることができるのだと誰かが言っていた。言い分はなるほど納得できるもので、おれはそれに返す言葉を選べずただ飲みこむばかりだった。けれども、深く心に沈む望みは揺るがず、おれはいつだって新しい生を求めていた。ずっとずっと、この無為な時間をやり直せたらどんなにか素敵だろうと感じていた。
 記憶の終わりは思い出すべくもない。ふつりと途切れた意識は唐突に現在とつながり、溌剌とした母の声を耳が拾う。なんの変哲もない自身のやり直し。そんな日々を繰り返し繰り返し、そうしてやっと、自らの望みの本質が単に時間を巻き戻すだけのものではなかったのだと気がついたのだ。

 持て余した二回目の終焉はほど近く訪れる。開発途上のニュータウンには、まだ幼い子供を抱えた家族が多く住み着いていた。利便性の高い街暮らしの記憶があるだけに、それはあまり好ましくない選択のように思えたが、人の目は多く子育てには向いているのかもしれない。
 そんな町で、おれは地域の輪のなかにうまく溶けこんでいたと思う。普段一緒に遊ぶ子供たちは、年齢も性格もてんでばらばらで、けれども約束などというものは交わすまでもなく、ただ近所の公園へと赴けば誰かしら見知った顔がそこにある。子供らしいつきあいはおれにとり特別意味を成さないものであったが、子供の発想は時に奇抜で興味深く、覚悟したよりもそう悪くはなかった。
 代わり映えのしない毎日ではあるが、それでも些細な変化は存在した。その日おれが公園へと向かったのは、普段よりもほんのすこしだけ早い時間だった。ぴかぴかのランドセルを玄関にそっと置いて、まだ誰もいない公園を満喫しようと考えた。入口にある短い坂道から遠回りをして、だだっぴろい地面を駆け抜ければ、中央にある灰色の壁の両端に赤いレンガの短い階段が続く。駆け上った先は公園の中段で、滑り台などの遊具がちいさい崖から架かっているが、そこにいつもの影はなかった。けれど、それは目論見通りに無人だったわけではない。
 壁の上は階段と同じレンガが平坦に敷き詰められ、三辺をフェンスが囲っている。藤棚の下に並んだ四つのベンチへ安心して座れるように、落下防止や壁打ち対策あたりを兼任しているであろうそれは、けれども運が悪ければあまり意味をなさないことを知っていた。風船が弾けるような、あるいは紙鉄砲が炸裂するような音が、顔のすぐ横で鳴ったのを思い出す。いまは冷たい頰をさすりながら階段とおなじように砂にまみれたレンガを踏みしめれば、じゃりじゃりと耳に障る音が鳴った。決してちいさくはないそれに反応して、置物のように動かなかった先客が、おもむろにおれを振り返った。
 ところどころが欠け落ちた、古くなった木製のベンチに腰掛けるそのひとの、さらりと揺れるミルクティー色の髪をよく覚えている。
「はじめまして」
 穏やかな声が耳に心地よく、ほのあたたかい春の風がやんわりと色づいた気持ちがした。二言、三言の言葉を交わして、その女性はおれと入れ替わるように帰路へ就く。いのちを大切に抱えてじわじわとちいさくなる後ろ姿を見送りながら、おれはそのひとがなんとなく気になって、明日はもうすこしだけ早く来てみようかと考えた。
 けれども、そんな気持ちとは裏腹に、次の日は常よりそう変わらぬ出立となった。入れ違いになったのかそもそも来なかったのか、女性には会えず仕舞いである。しかしそのさらに次の日には、目標通りに家を出ることができた。まだ淋しい藤棚の下では、からだを冷やさないようすっぽり布に包まれた女性が静かに春の兆しを眺めていた。
「また来てくれたの?」
 まろく微笑む彼女に頷いて、隣に座るお伺いをたてる。そんなに長くはいないけれど、と返す彼女は言葉に違わずすこし経つと帰ってしまったが、それでも以前よりはずっと多くの話ができた。
 その時間が他の何よりも楽しかったので、おれはその日より、可能な限り彼女たちに会いに行くようになったのだ。

「この子が生まれたら、どうか仲良くしてあげてね」
「うん!」
 退屈でたまらない平坦な日常のなか出会った彼女は、おおきなおなかを撫でながら、もうじき生まれる子供の話をした。会話の結びは決まっていて、おれはいつも誇らしげに頷いた。いつか出会うちいさな生き物の、その柔らかな手を握る空想は、乾いたこころに与えられた一滴の雫だった。
 ほどなくして、あたらしいいのちは誕生する。おれは変わらず公園に顔を出したが、彼女にはしばらく会えない日が続いた。詳しい予定日なんてものは知らず、いつもの時間帯に姿を現さない日々が続いたが故の推察であったが、その空白は子供のからだにはひどく長いもののように感じられる。出会った頃はまだ硬く閉じていた花が綻んで、散って、そうして晴れ間を探さなくては遊ぶこともできなくなった頃、彼女は漸く戻ってきた。
 日差しは鋭さを増し、水気を多く含んだ空気はどこかじっとりとして重たい。けれど彼女は過ぎ去った春の日差しのような柔らかさで、ちいさな、ほんとうにちいさないのちを抱えながら、おれに向かって破顔した。
「零っていうのよ。よろしくね」
「わあ、れいくん! よろしく!」
 真っ赤な手のひらにそっと指を差し出して、おれはれいくんに挨拶をする。きゅっと握りこむその動きの、どこまでもふわふわと覚束ないのが、何とも言えず愛おしかった。
 おれを見つめ返す瞳はきっと、いまはまだ世界の輝きしか映していない。出会いの季節を彷彿させる、ほの明るいあたたかな風と同じ温度で笑うこの子が、おれのことを急激に現実へ呼び寄せた。
「あかちゃんってこんなにちいちゃいんだねえ」
「……この子はとくべつちいさいの」
「そうなんだ」
 短く結んだ言葉に滲む感情を、おれは慮ることができなかった。ただ納得したからというのが理由であったが、それ以上話を掘り下げなかったことに、彼女はすこしほっとしたのだと思う。帰ってから母にれいくんの話をした折に、それはあまり言ってはいけないと諭されたので、おれは無邪気な子供の顔をして言葉を重ねてはいけなかったのだと理解したのだ。まだ難しいだろうと切り上げられた説明の、そのさわりを聞くだけで、れいくんがまだ外の世界で息をするにはちいさすぎたことを知ったからだ。

 日常のゆらぎはふとした瞬間に落ちてくる。買い物から帰った母が冷蔵庫に袋の中身を片付けながら、カウンター越しに話しかけてくる。冷房の風がしっかりと当たる食卓テーブルの隅っこで、色紙をせっせと彩りながら、横目でちらりと窺った頬がわずかに赤いのが印象に残った。
「さっきそこで降谷さんに会ってね、ちょっと話しこんじゃった!」
「ふるやさん?」
「あっそうか。えっとね、れーくんのママのことよ!」
「へえ……そんな名前だったんだねえ……」
 ふるやれい。うつくしい音のならびだった。どこかで聞いたような気がするけれど、思い出そうにも特に心当たりがない。手に持ったすこしの違和感はあっさりと飲み干して、引越しを控えた友人へ送る寄せ書きへと向き直った。

 初めの頃は母の腕のなかにちょこんと収まるれいくんであったが、夏が過ぎ、秋も過ぎ、冬も逃げていく頃になれば、彼は砂場で元気に破壊と創造を繰り返すようになっていた。顔についた泥を、土のついていない親指でそっと拭うと満足そうにふすふすと鼻を鳴らす。透きとおる水色の空はれいくんの瞳によく似ていて、さらりと揺れるミルクティ色は柔らかい。泥を払った手でくしゃくしゃとその後ろ頭を撫でつける。
 その感覚がすきだった。

   ◇

 光陰は矢のごとく過ぎ去り、いつものベンチには花影がゆらゆらと踊りはじめる。
 近頃はずっと、引っ越した友人から手紙が届くのを心待ちにしていた。毎日毎日小学校から帰ってくると、ほんのすこし角の削れたランドセルを放り投げて、必ずポストの中身を確認した。どうでもいいチラシや父宛の小難しい封筒、回覧板など、投函物は多種多様であったが、今日に至るまで自分宛の手紙を確認することはできなかった。
 そんな日が続けば今日こそはという気持ちも薄れ、待っていればいつかそのときがやってくるという悟りを開く。けれども、そうして期待を脇へ置いた途端にそのときがくるというのはよくある話だった。
 ポストを確認してみれば、親宛にしてはいやに可愛らしい封筒に包まれた一通の手紙が、そっけない茶封筒の上に鎮座していた。たくさんの言葉の綴られたであろう厚みを指先で感じながら、自分宛の手紙とはとかくこころの弾むものだと咀嚼する。裏面にちいさく書かれた差出人の名前は引っ越していった友人のもので、綺麗に整えられた文字列はあの子の親が書いたものだろう。留めや払いがやや長いそれを指先で遡り、現在の友人の住所に目をやれば、そこには首都の記載があった。東京都の米花町。引っかかりを覚えて反芻する。米花町。
「米花町!?」
 答えは存外直ぐに浮上した。米花町といえば、一回目の人生で国民的アニメとなっていた探偵漫画ではないか。混乱のまま手紙をそっとリビングのテーブルの上に置いて、壁の時計を確認する。やや早いがれいくんたちが公園にくる頃合いだ。あんなに心待ちにしていた手紙を開封するのも忘れて、おれは外へと飛び出した。家の前のなだらかな坂道を駆けのぼり、住宅地のなかにある開けた十字路へとやってくる。公園は広く、周囲を木々に覆われているが、彼女が座っているのは隙間からでも捉えることができた。
 はらはらと散る花弁の向こうでは、近所の幼子と砂遊びをするれいくんの姿があった。あまい髪の毛がふわりと風にさらされる。
「あっ……降谷零……」
 およそ一年、自分は何故気づくことができなかったのだろうか。ただただ不思議で仕方がなかった。真相へとたどり着いた瞬間、そこかしこに散りばめられていたヒントに気づくのだ。
 今日は早いのね、なんてにこにこ微笑みながら声をかけてくるのをどこか遠くに聞きながら、まさにいま目の前で作りあげた砂の山を潰されて泣きそうになっているれいくんを慰める。
「れいくん、おれとお山つくろっか」
「にーちゃ!」
 俺が近付けば一瞬前のことなど忘れたように、ぱっと明るい表情を浮かべる。砂まみれの手を元気よく上げて、違和感があったのかそのまま自分の目元へと近づける。
「あっ! ばっちい手でおめめ触っちゃだめだろ」
「めっ」
 被害の拡大する前に、汚れたその手は掴んで止める。れいくんのおかげですっかり常備するようになったハンカチを取り出して、とんとんと端っこに当ててやれば、どうやら彼はすっきりしたようだった。
 誕生から見守っていた子供が前世で八十億だか九十億だかを荒稼ぎした男だった、というのはおれにとりそれなりの衝撃であった。国外あわせて百億を超えていたかもしれないが、金額の話は些事である。驚きはフェンスを飛び越えて、藤棚の下で呆然とするおれの耳元でけたたましい音をたてた。けれども、それによってれいくんの印象が揺らぐことは最早なかったのである。
 吸いこまれそうな春の空と同じ色をした瞳はおれを見れば嬉しそうに溶け出して、抱えたり砂遊びをしたりしてやれば声を弾ませる子供の姿は、何億の男なんて言葉とは結びつかない。おれは相変わらずれいくんの近所のお兄さんだったし、れいくんも次第に達者になっていく言葉や動作でもっておれのことを追いかけ回したり、全力で感情を訴えたりするのだ。
 その事実がもたらしたものは、この生がやり直しではないという希望だったのだ。昨日までの自分とは何にも変わりはしないのに、ただその一点だけが明日を夢見る理由になる。犯罪都市なんて揶揄をされたりもするが、この物語は現実的ではない名探偵が実在する世界観のなかにある。自らがそうなれる自信はどこにもなかったが、せっかくなのでそれに連なる何かを目指せたらいいなと思った。不純な動機ではあったが、ひとつ現実から離れた目標のできたことが、おれの足を地につける理由になった。

 季節は絶えず巡り、再出発の契機はすでに手のなかにある。どうやらおれとれいくんの話はここでおしまいのようだった。親より告げられた転居先はずっと遠く、この土地は縁もゆかりもなくなってしまう。
「にーちゃん、またね」
 にこにこと手を振るれいくんにそっと微笑んで、けれど返事はできなかった。不思議そうな表情を浮かべながらも母に手を引かれ、彼は赤いレンガの階段を降りていく。その後ろ姿にそっと、手を振り返す。そして、とうとう言えなかったさよならを呟いた。
 これから先、あの子に降りかかる未来の一部を断片的に覚えている。おれ自身が彼のこれからを見守ることはできないけれど、兄と呼び慕ってくれたちいさなれいくんの幸せを、いつまでも祈っていたかった。

 きっと人生は長い野遊びのようなものなのだ。れいくんが連れてきた春はこころの片隅に根を張って、いつだっておれを未来へ連れて行ってくれた。
 追憶はいつもあたたかく、藤の香りに満ちている。


2020.06.21 発行
降谷零の六つの人生区分を追う合同誌より ◆ 幼年期