碧落の聲がきこえるか

 春も立ち久しいというのに、未だに雪がちらつくような寒さが残っていた。そんななか出歩くには薄すぎる格好で、わたしは駅前の広場に立ち続けている。目に留まりやすい装飾文字を書いたスケッチブックの看板を手に持って、にこにこと道行くひとを見送ったり、手を振ったり、そして時折声をかけたりしている。
「フリーハグだって」
「ほんとにやってるひといるんだ」
 そうしていると、たまに人波を外れて躊躇いながら近づいてくるひとがいる。都市伝説に出会ったとでもいう様子で好奇心から足を止める学生には、きっとあとひと押しが足りていない。
「お姉さんたち、よかったらどうですか」
「ええ、どうしよう……」
「せっかくだからお願いしてみようよ」
 看板を片手に持ちかえて、からだの前で大きく腕をひらく。もう一歩を何度か詰めて、彼女たちがおずおずとわたしの懐に入りこむので、その細い肩へと腕を回した。自分よりもいくらか低いその影を抱いて、お礼のことばをひとつ、ふたつ。ほんのすこし後、離れた彼女はほっとした様子でわたしににこりと微笑んだ。

   ◇

 それを始めたのは思いつきだった。なんとなくその言葉だけを知っていて、道行く誰かとハグをするなんて不思議なひとがいるものだと感じていた。ただ同時に、そのほんのわずか道の接する他者との関わりが、なんだかとても素敵なもののようにも思えたのだ。何か高尚な目的があったわけではなく、例えば投稿用の動画を撮る予定もないわたしにとってのこれは、ただ淡々と続いてゆく日常へのささやかな反抗心だった。
 初めて看板を持って立ったときのことはきっと忘れない。同じ目的を持った人間が広場に溢れるなか、わたしは緊張と期待を抱えて立ち尽くしていた。近くのお姉さんが親切に気を配ってくれて、ともすれば吹き出してしまいそうな不安感にぴったりと蓋をすることができたのだ。その日ハグをしたのは両手の指に足るかどうかといった程度であったが、胸の内に広がるあの充足感を、背に回す手のひらのぬくもりを、いまも大事に抱えている。続けるための理由なんてものは、その記憶だけで充分だった。
 ある程度慣れてきた頃からは、その日の気分で場所を変えてみるようになった。最初の町と同じようにフリーハグの活発な地域もあれば、逆に誰ひとりとして駅前に立つひとのいない地域もあった。環状線に揺られて日毎一駅ずつ移動してゆき、そうして見つけた気に入りは、定期的に何度も足を向けるようになる。
 米花町はそのひとつだった。この町に友人はおらず、わたしの居住区から足を向けるにはすこし遠い。同じような感覚で用事を済ませられる街がより近くに存在していたため、こんな機会でもなければ今後もくることはなかっただろう。
 それまで関わりのなかったことが嘘のように、わたしは米花町へよく遊びにくるようになった。この町は人通りも多く活気付いてはいたが、フリーハグにはあまり馴染みのない場所だ。初めの頃は好奇の眼差しも多かったが、続けていくうちに何人か顔馴染みも増えた。名前も知らず、ほんの数秒触れ合うだけの関係は、なんとも言えず非日常的で胸が弾んだ。

 そうしていくつか決まった場所に立っていると、道行くひとの流れのなかに印象的な影を見つけることがある。わたしがそのひとを認識するようになったのはおよそ半年ほど前のことだ。
 彼は見かける瞬間によってその印象を大きく変えるひとだった。身長は高く、人混みのなかにあれば頭がすこし飛び出すことも多かった。だから日の光を受けてきらきら輝く色彩は、遠目にもよく見えたのだ。
 時間や状況は様々だったが、場所は概ね米花町にいるときに限られていた。ひとりのときはすこし難しい顔をして、けれども「アムロさん」を呼ぶ声があれば彼はすぐさま目元を緩ませる。知り合いの幅が広いというよりはアイドルとファンのようなやりとりに、わたしは初め疑問が尽きなかった。けれども、そのぼんやりとした謎についてわたしが考えることはあまりなかった。聞こえてくる近場の学生たちの会話から、彼がこの辺りで人気のある喫茶店の店員だということはすぐに知ることができたからだ。
 そうやって、あれはよく女子高生に囲まれているアムロさんだな、程度の認識ができるようになった頃、わたしはまた彼の印象を深める出来事に遭遇する。
 その日の彼は、昼間見かける姿とは大きく違っていた。

 守衛さんの見回りにくる時間の限界ギリギリに学舎を出たわたしが最寄駅についたのは、夜も深まった頃合いだった。駅前はまだ明るいが、ひとつ道を入れば古びた街灯が薄ぼんやりと地面を浮かびあがらせている。リュックの肩紐をぎゅっと握りしめ、暗がりへ続く横断歩道を目指した。そんなとき、わたしの目の前を横切って、まばらな人通りに一台の車が止まる。
 高そうなそれから出てきたのは、記憶に新しい彼であった。遠目から見えた姿は暗がりも相まって、絶対の確信があったわけではないが、普段より遠目でしか判断することのないわたしにはそのように感じられた。彼は運転席から降り立つと、そのまま反対側へと歩き助手席の扉をそっと開ける。なかから出てきた女性のゆるくウェーブのかかった金髪が、ほの明るい街灯の名残を受けてきらりと光る。きっと美人に違いない。それは状況にそぐわないわたしの主観であったが、女性の手を取ってエスコートする彼の姿は、映画のように現実味がなかった。
 その瞬間、わたしは見てはいけない何かを見てしまったような心地がした。心臓がぎくりと跳ねて、思わず目を逸らす。進むことも戻ることも忘れてただ立ち尽くす。
 やがてコンクリートを打ち鳴らすヒールの音が遠ざかり、わたしはまたこっそりと彼の方へ視線を戻した。いつの間にか小さくなった女性の背中が角を曲がり、彼はすこし項垂れる。元気のないその影は、くたびれた様子で息を吐いたように見えた。

 秘密の夜を越えても何かが変わるわけではない。特別気にかけて探したことはなかったけれど、彼を目に留める機会は自然と増えていった。なんとなく存在感があって、そこにいれば不思議と視界に入ってくるのだ。そうしてわたしがそのひとを認識するとき、彼はほんのわずか、わたしの視線のずっと先で、身に纏った完璧を取りこぼすのだ。
 そんな彼のことがわたしはただ心配だった。知り合いでも何でもないただの学生がこのような眼差しで見つめるのは、本当はとても失礼なことかもしれない。その行動はわたしの日常に組みこまれて久しいが、実際に彼と関わる日がくる想像はこれっぽっちもできなかった。
 どんなに疲れた顔をしていても、彼はすぐに取り繕って歩き出してしまう。そんな彼にこそ、この安堵を感じてほしいと思っていたが、同時に彼には必要がないのだろうとも感じていた。道行く人々の多くが路傍の石を気に留めぬのと同じように、見知らぬ誰かのぬくみを欲するようなひとではないと、そう感じていたのだ。

 学園祭の準備に駆り出されて、いつもとは違う時間に米花駅の広場へ降り立った。ほんのすこし日の傾きが変わるだけで、見知った雰囲気も違ったように感じられる。背負ったリュックから慣れ親しんだスケッチブックの看板を取り出して、からだの前にそっと構える。大した時間もかからずに、それらの準備は完了する。そうして視線をまっすぐに上げたとき、正面から歩いてくるひとのなかに、彼がいた。
 楽しそうに会話するふたりの女子高生と、共に歩く、彼と小さな子供がひとり。奇妙な取り合わせではあったが、小さな子供と話す彼に貼り付けたような表情はなく、悪戯っぽい笑みはただ楽しそうに見えた。
 その一団にすっかり目を奪われていたわたしであったが、彼らの前を歩くひとりの男性が流れから逸れてこちらへ歩いてくるのは見逃さなかった。頭ふたつ分以上に大きいそのひとが腕を広げれば、わたしの視界は他に何も見えなくなる。ふわりと漂う香水がなんだかおしゃれだった。
 ハグ自体はそんなに長くない。ほんの数拍の後に離れた男性はぐっと親指をたてるとそのまま歩き去ってゆく。ありがとう、よい一日を。機会は増えても相変わらず慣れない英語で決まりきった短い文章を伝えれば、振り返った彼は君もね、と手を振った。
 下げていたスケッチブックを再びからだの前に構えて、また元の位置へと向き直る。すると、わたしの興味の一行が、すこし離れたところで立ち止まり、一連の流れを興味深く眺めていたようだった。
「いまのひと、知り合いですか?」
「いいえ。全然」
「えっ!? 知らないひとがあんな自然にギュッとしていくんですか!?」
 歩き去るお兄さんの後ろ姿とわたしとを前のめりになってうろうろ見やるお嬢さんは、素直で可愛らしく見えた。
「園子姉ちゃん、フリーハグだよ」
「フリーハグ?」
「あ、私聞いたことある」
 感情表現の豊かな女の子の疑問に慣れた様子で解説をするのは、年の割に随分と落ち着いた少年だった。鸚鵡返しに少年を見下ろす彼女の隣で、女の子の片割れがその言葉に反応を示す。テレビで見たことがあると言う彼女の言葉に付け足すように、アムロさんの傍に佇んでいた少年が至極冷静にフリーハグについて説明をするので、わたしは何も話すことがなかった。最近の子は物知りなんだな、なんて呑気に構えていると、一通りの説明を受けた彼女たちがなんとなく頷いた。
「せっかくだからハグしていきませんか?」
「私やりたい!」
 反応を見るにわずかな興味ではあったが、折角の機会だと思って両手を広げてみる。少年の説明はほとんど聞き流す形で、フリーハグそのものにはさして熱意を抱くに至らなかったお嬢さんが、驚くほど情熱的に立候補したので、その勢いにやや面食らう。
「何でそんなにノリノリなの?」
 相槌の様子を振り返れば不自然な彼女の食いつきに、物静かな方の女の子が不思議そうに首を捻った。わたしも気になるところではあったので、内心でその質問を褒め称える。
「だって、いまこの人にハグしてもらったらさっきのイケメンと間接ハグできるってことじゃない!?」
「ちょっと園子!」
「はいハグー!」
 欲望に忠実な彼女の台詞があまりにも気持ち良くて破顔する。誤魔化すような掛け声と共にわたしの腕に勢いよく飛びこんできた彼女の髪が、さらさらと頬を擽った。彼女のハグはすこし力強かった。
「なんか落ち着いていい感じだわ」
「ふふ、よかった。ありがとう」
「お姉さんもどうですか」
「えっ、じゃあ、お邪魔します……」
 逡巡は一瞬だった。彼女の前に嬉々としてハグをする友人がいた分、心理的なハードルは下がりきっていたのかもしれない。そんな彼女のおそるおそるの抱擁は一瞬だった。離れていく照れ臭そうな頬を目で追って、お礼の言葉をひとつこぼす。子供がほど近くにいたのでかがんでみれば、彼もまた心得たように手を広げた。会話を聞いていた印象とは違い、存外素直な子供を包みこむ。
 そして、同行していたわたしの興味の対象は、そんな子供たちを微笑ましそうに眺めていた。流れに則って彼に向き直ってみれば、困ったように頬をかく。言葉はかけなかった。このままスルーされたとしても、納得を嚥下して終わりになることは間違いない。わたしはどちらでもよかったのだ。
「ホラ、安室さんも!」
 押しの強い彼女に文字通り背中を押されて、彼はわたしの腕のなかへとやってきた。ほっとひとつ、吐息の音が鼓膜を揺らす。一瞬で離れた彼をそっと伺うと、彼は普段の上手な笑顔をすこし強張らせて、なんとか微笑んでいるように見えた。

 近くに高校が存在することは知っていたが、活動時間と行動範囲が存外彼女たちと被っていたことに気がついたのは、一度ハグをしたことが切欠だった。彼女たちの着ていた制服は何度も見ていたけれど、その属性を持つ全てのひとを記憶することはできない。ある程度関わって顔を認識しなくては、個人を判別するのは難しい。けれど、印象的な出来事があれば話は別だ。彼女たちはそれ以来、わたしの姿を見かけたら話しかけてくれるようになったし、時には自身の友人を連れてくることもあった。一緒にいた少年もまた同様に、わたしを見かけると小さな腕を広げてハグを受け入れる。
 そして、相変わらず見かける彼にもまた、すこしの変化が訪れた。わたしの姿を見つけると、短い会話を交わすようになったのだ。
 昨日はいままでで一番美味しいコーヒーを淹れることができたんです。店で作った柑橘スムージーが思いの外気に入ったので、自宅でも作るようになったんですよ。
 そういった彼の些細な日常の吐露は、彼の人間味を感じられて好ましかった。けれども逆に、わたしが彼に尋ねるとき、その応えはないことも多かった。
 すこし疲れた顔をしてますけど、最近ちゃんと眠れていますか。緩やかに地面へ落ちる言葉は曖昧に流されて、そんなときわたしはただハグをして彼を解放する。そして小さくなる背中を見送る間に、間接ハグ狙いの女子高生に声をかけられるのが決まりつつあるパターンだった。
「せっかくなので、ハグはどうですか?」
「はは、じゃあお願いしようかな」
 くたびれた顔をする彼に腕を開く。いつからか彼は顔の隠れるほんの一瞬、表情を取り繕うことをやめたようだった。短い安堵が吐き出されると、わたしは満ち足りた気持ちになる。
 他愛のない短い会話をたくさん交わした。彼について、知らないことの方が遙かに多かったけれど、その程度の顔見知りというのが、何とも言えず心地よかった。

 けれども、それもずっとは続かない。
 今日も変わらぬ頻度で米花町の地を踏むわたしを迎えるのは、あれ以来すっかり仲良くなった園子ちゃんたちだ。
「安室さん、ポアロもやめちゃったのよね」
 近頃彼の姿を見かけないことをぽろりとこぼしてみれば、彼女たちがその理由を教えてくれた。知らぬ間に訪れていた別れを知って、彼の安堵を思い出す。ほんのわずか交差した奇跡を抱きしめて、わたしはやっと、記憶のなかの彼にさよならを言う。
 腕のなかのぬくみを思い出しながら、わたしのこころは凪いでいた。

   ◇

 月日は流れる。彼女が就職をしてから一年半。お馴染みの看板はめっきり外にでる機会を失って、けれどもいまでも全くのゼロになったわけではなく、時間を見つけては気に入りの場所に立っていた。
 普通に生きていて爆発事件に巻きこまれる可能性とは一体いかほどであろうか。後学のためにと先輩に連れられたパーティ会場で、彼女は二度と経験したくない事件に巻きこまれることになった。会場に警察の姿はなかったけれど、よく通る声が彼女たちの初動を制した。声の発生源はほど近い。人波の間を辿って姿を探せば、そこにいたのは数年前よりめっきりメディアに顔を出すことはなくなってしまった元高校生探偵の青年で、落ち着いた彼の声はともすればパニックで逸脱した行動を取ってしまいそうになる彼女たちのこころをそっと撫ぜた。
 その場所で彼女たちは、工藤新一の異名の理由を間近で体感することになる。いのちの行方を他人に託してじっとしているのは苦しかったけれど、名探偵の活躍は、彼女たちが部屋の隅で震える時間を最大限に短くした。

 近くの植木を彩るレンガの、比較的綺麗な場所へと座りこみ、渡された毛布で視界を遮る。暖かい飲み物は手に持って表面を眺めているだけでも荒立った気持ちを鎮めてくれるようだった。
 彼女はそのまま暫く身じろぎひとつしなかった。やがてほんのすこしの余裕を取り戻すまで、彼女は庭園のオブジェのように、夜風がみずからの肌の上を歩くのを感じていた。
 入口近くの噴水の横には、警察と話す工藤新一の姿があった。かしこまった態度を時折崩すのが、彼らの関係の長さを物語っている。綻んだ顔で談笑を交える彼らであったが、ふと、何かに気づいた様子で彼がひとの輪を離れていく。ある程度の報告を終えたのか、急用ができたのか、遠目から眺める彼女にその内容まではわからない。彼が振り返る一瞬、彼と彼女の視線が交差する。自我を取り戻した彼女が軽く頭を下げると、自然と降ろされたままの彼の両腕がわずかに跳ねるのが見えた。はたと一瞬立ち止まり、軽く微笑んで彼も小さく会釈した。
 ほど近くに座っていた先輩が、彼女の元へとやってくる。今夜出会ったヒーローの名前を挙げながら、冷えた彼女の手を握る。
 そうやって、彼女は日常へと戻ってゆく。


「降谷さん」
 木々の茂るなかに消えた工藤新一は、事件後に姿を現したその影に向かって声をかけた。近くにひとのないことは確認したものの、潜めた声からはその存在を明らかにしたくないことがよくわかる。
「工藤君、久しぶり」
 彼女がこの場にいたならば、安堵の音が耳の奥に聞こえただろうか。工藤へ向けて愛想よく返す人影は、彼らの記憶に残るかつての別人を彷彿させた。
「君のおかげでなんとかなりそうだ」
「もっと普通に声かけてくれたらいいのに」
「はは、君は人気者だからね」
「なんですか、それ」
 話す言葉は気安くて、そこかしこに信頼が滲んでいる。主語のない会話はふわふわとしているが、誰かに聞かせるためのものではないのだから彼らが把握できていればいいのだ。
「そういやあのひと、オレ久しぶりに会ったんですけど、つい腕広げそうになっちゃって」
「ああ……あの子は運が悪かったな。転職を勧めておいたほうがいい」
「いや、初対面の男がいきなり転職をすすめてきたらおかしいでしょう」
「そうかな? 意外と素直に聞いてくれるかもしれないよ」
「……考えておきます」
「うん。そうしてくれ。彼女には少なからず恩があるんだ」
「へえ、意外だな。蘭達に流されただけだと思ってました」
 興味深そうに覗きこむ工藤の視線からそっと目を逸らして、降谷は静かに想起する。そう遠くない記憶だ。習慣化するほど長い期間でもなかった。けれども、腕のなかには確かに小さな安堵が残っている。
「自分で言わないんですね」
「それこそ冗談だろう?」
 ため息と一緒に漏れ出た声が、工藤の言葉を一笑した。
 そして降谷と同じように、かつての彼女を思いだす。彼の小さなからだを抱きすくめた女の子は、このかたい言葉遣いを知らないのだ。


2020.06.21 発行
降谷零の六つの人生区分を追う合同誌より ◆ 青年期