鮮やかな雲間の眺め

 土の匂いがたちのぼる。先日の雨で花は地面へと落とされて、すっかり緑が眩しくなりつつあった。もう随分と着慣れたスカートを翻して、新調したローファーを打ち鳴らす。身軽な装備で外へ飛び出すわたしを食卓テーブルから見送った両親は、まるで幼児に言い聞かせるような口ぶりで、足元に気をつけるよう釘を刺した。
 住宅地の裏の細い階段を一段飛ばしで駆けあがり、公園と住宅地の一望できる道をゆく。斜面に生えた木々の、その成長した根によって隆起した地面は、赤いコンクリートをぼこぼこと持ちあげて昔から大層歩きにくいけれど、一向に整備される気配はない。眼下の住宅地がどれだけ手を加えられても、ここだけは切り取られたように時間が止まっている。わざわざ通る必要のない道を選んで学校へ向かうのは、そんなところが好ましく感じられるからだった。
 そこからさらにほんのすこし進めば広い階段の向こうに橋がかかっている。小さな段差は足元が狂うのでどうしても速度が落ちてしまうが、始業までは余裕があるのでそう急ぐ必要はない。
 気が逸るのは、別の理由からだ。
「おっ、ちび今日も元気だな」
「新一くん! おはよう」
「おはよう。はしゃぎすぎて転ぶなよ」
「もう、みんなそればっか言う!」
「やっぱもう言われた後か」
 悪戯小僧のような顔をして声をかけたのは、近所に住む新一くんだった。わたしにとっては幼い頃から身近なお兄さんだけれど、工藤新一といえばいろんな異名を持つ全国区で有名な私立探偵だ。名前にはぴんとこなくても、現代のシャーロックホームズとか、日本警察の救世主と言えば分かるひとも多いのではないだろうか。彼が熱烈に憧れる探偵の名は、彼自身に定着して久しい。本来ならきっと、こうして気安く話しかけられるような存在ではなかった。
「というか新一くん、いつまでちびって呼ぶ気なの?」
「いつまでだろうな。ちびはちびだしな」
「もう。わたしは最高の助手なのに!」
「はは、わかってるって」
「ほんとかなあ!?」
「ほんとほんと」
 大きいてのひらが、ぽんと軽くわたしの肩を叩く。ぽかぽかと暖かいそれが、言いようのない充足感を与えた。
「頼りにしてるよ、ワトソン君」
 芝居がかった激励の後見送る彼にそっと手を振り返して、大きな道路のはるか上空に架かる橋を渡る。
 わたしにとってのホームズは、わたしだけの名探偵ではない。けれども、彼が小さな相棒と呼んで後を追うのを許してくれるのは、どうやらわたしだけのようなのだ。

   ◇

 新しい生活も慣れてしまえば同じことの繰り返しだ。そもそもひとつ学年があがるだけのことに、これまでと大きな違いはない。まっさらな教科書の角はすぐに丸くなって、意図せず耳のように折れ曲がったページが恨めしそうに自らの存在を主張する。
 この時期になると、父は納戸からラタンのソファと小さなローテーブルを取り出して、縁側に居心地のいい基地を作るのが常だった。しとしと降り注ぐ水の音を聞きながら本を読むのがどうにも気に入っているらしく、休日に暇を見つけてはしなやかなそれらに囲まれて、落ちる影に一息つくのだ。

 土曜日は半日の授業があるから億劫だ。校内での使用は校則違反になってしまうため、門を一歩出た瞬間さっさと取り出したスマホに視線を落とせば、新一くんからメッセージが届いていることに気がついた。どうやら父の書斎に用事があるらしく、いま家に来ているという報告だ。お土産の水菓子が冷蔵庫に入っているから帰ったら食べてほしいということ、そしてその際にはつるつる飲みこまずちゃんと咀嚼するようにと書き添えてある。わたしはそれを見た瞬間、気持ちはもう家にたどり着いていた。
 けれども、帰宅後わたしが一番に向かったのは彼のいる書斎ではない。いま行っても意味がないことを既に知っていたからだ。自分の部屋よりもずっと落ち着くことのできる居間に荷物を置いて、きょうは自宅にいるはずの父を探して歩く。板張りの床を靴下で滑りながら進んでゆけば、特等席に腰掛ける探しびとの姿があった。空気はじっとり重たいが空は綺麗に晴れ渡って、ここ最近見慣れた景色とはうってかわってきらきらとしている。静かな寝息をたてる父の前には、汗をかきながらからりと音をたてる麦茶のグラスがあった。なんとなく季節を先取りしたような気がして、口のなかでひっそり笑う。耳の横をそっと撫ぜてゆく風が小気味好かった。

 眠っている父を起こすのは忍びなかったので、わたしはそのまま居間に引き返して時間を潰すことにした。余暇を楽しむためにはやるべきことを先に済ませてしまうのが良い。置いたばかりの荷物から必要なものを取り出して、暖かみのある大きな木のテーブルに広げて置く。授業の復習に手を動かせば、時が経つのはあっという間だった。
 一通りの教科を終えた頃、タイミングを計ったように母が帰宅する音が聞こえてくる。居間に駆けこんで早々、冷えたソファの上に力なく横たわる彼女は、外の暑さにすっかりやられていた。顔の近くでぱたぱたと団扇をあおげば、呻き声と共に小さな感謝が返ってくる。いまやるべきことを持たないわたしは、そのまましばらく母にまとわりついて、彼女の落ち着くのを待っていた。背中を大きく膨らませながら父と客人の所在を尋ねるので、どちらもいつもの場所だと伝えると、適当な頃合いでふたりを回収するように頼まれる。
「回収とはなんだ」
「あれ、パパ起きてたの」
「ついさっきね。ところで工藤君は?」
「書斎にいるって朝連絡来てた」
「ああ、なるほど。まだ出てきてないのか」
「うん。いまからちょっと様子見てこようと思って」
 テーブルに広げていた筆記用具たちを鞄に流しこんで、散らばった消しカスも片付けた。鞄の底で眠りについていたスマホひとつを手に取ると、足取り軽く居間を後にする。
「おい、転ぶなよ」
「わたしそこまで注意力散漫じゃないよ!」
 足が滑りそうな言葉に見送られて。

 書斎は玄関のすぐ傍にある。他に比べて心なしか重たい気のする扉をそっと開けば、ひんやりとした空気が足の甲を駆けのぼった。本棚の裏をそっと覗きこむと、壁際の椅子に腰掛けた彼が物思いに耽っている。必要な資料は粗方目を通して、きっといまは情報の整理をしているのだろう。彼の周りに散らばった資料を一瞥した後、すこし離れた場所に置いてある椅子と、適当な本とを持ってきて、彼にほど近い場所で落ち着いた。
 視線の先で微動だにしない麗人は、両手のひらを合わせてそっと口元に添えている。彼の敬愛する探偵の所作は、そのまま彼の考え事をするときの癖になっていた。わたしはずっと、そんな彼のことを、物語から飛び出したようなひとだと思っていたのだ。
 ぱらりぱらりとページをめくる音だけが、静かな部屋にこだまする。こうして穏やかな時間を過ごしていると、自分がうんとおとなになったような心地がする。わずかに黄ばんだ紙の上で踊るインクを追いかけて、一体どの程度経ったことだろう。ポケットからスマホを取り出してみれば、緑色の点滅がメッセージの受信を知らせていた。母からの夕飯の案内だ。新一くんを連れてくるようにと記されているが、彼はまだ深く思考の海へ沈んでいる。この状態の彼は、外からの声に気づかない。
 どうしたものかと頭を悩ませるが、思案したところで仕方がない。催促の電話のかかるまで一旦保留にしようと決めるのは早かった。そして再び手元へ視線を落としたところで、ふと、新一くんの意識がゆっくりと浅瀬へ戻る気配を察知した。彼の心にあるのは屋根裏部屋か、それとも大きな神殿だろうか。長い睫毛を瞬かせ、傍目にはすこしぼんやりとした様子に見えるが、いまの彼は話しかければ何らかの反応を示すだろう。
「新一くん、ご飯だって」
「ん……ああ、ありがとう」
 ごく慣れた様子で新一くんが応えるけれど、彼が我が家の食卓に混ざるのは、実はとても珍しい。彼はしばしば毎日のようにうちへ通うが、その用といえば父であったり、父の持つ何がしかであったりする。没頭すると時間を忘れて夜の深まるまで滞在することも少なくはないが、彼の最愛のひとが待っているので、父母の夕食への誘いには乗らずに自宅へ帰ることがほとんどだった。
「蘭さんと喧嘩でもしたの?」
「いや、園子と旅行。お前オレが夕飯に呼ばれるとすぐ喧嘩かって聞くのやめろよな」
「だって新一くんの行動見てると思い当たる節が多いんだもん」
「言ったな?」
 わたしの頭を、細い指先がわしゃわしゃかき混ぜる。爪でもたてているのではないかと疑うほど痛いが、あくまでも指の腹であるとは彼の言い分だ。
「……ところで、ちびに頼みたいことがあるんだけど」
「ん! やっとわたしの出番だね!」
 お待ちかねの展開に、口の端がほろほろと緩むのを感じた。悪巧みをするようにこっそりと伝えられるミッションは、いつだって父には内緒である。

   ◇

 父と新一くんの間にある不思議な信頼関係は、すべてを理解できるものではなかった。ただ、幼い頃より漏れ聞いた会話から察するに、父は新一くんを野放しにしていると何をしでかすか分からないから、正式に依頼をするなり情報を統制するなりしてある程度の手綱を握りたいと思っているようだった。新一くんが事件に向き合うのは凝り固まった正義感からではなく、ただ目の前にある謎に対する飽くなき探究心からである筈なので、父の懸念はきっとその通りなのだろう。昔はいまよりずっとやんちゃだったのだとは思わずこぼされた父の言葉だが、新一くんから言わせてみればどうやらそれはお互い様であるらしい。歳を重ねて落ち着いたのだと主張するふたりはわたしから見てもずいぶんと大人げなかったが、周囲の人間曰く実際もっと苛烈だったというのだから、年齢も立場も全然違うというのに一切の遠慮がない彼らの言動にも納得がいくというものである。
 そしてそうやって父が新一くんへの情報を出し渋るとき、わたしが味方をするのはどうあっても新一くんの方なのだ。

 その日、新一くんは日の暮れるすこし前に我が家へ滑りこんできた。いつものように父の書斎へ飛びこむが、確認したい資料について場所すらも把握していたのか、彼の用事は一瞬で完了したようであった。カバンも下ろさずにわずかな滞在時間を終えようとする彼であったが、わたしがそれに待ったをかける。先日の頼まれごとが、もうすこしで仕上がるところであったからだ。地道な作業をせっせと積み上げて実を結ぶ瞬間、振るわなかったもどかしさは全て忘れてただ突き抜けた爽快感を覚える。
 そもそもわたしの小さな手のひらで、助けられることのあるのが嬉しかった。新一くんよりもずっと遅くに生まれたわたしは、彼自身よりも彼の子供のほうがずっと歳が近い。通学路でたまにみかけるあの子のランドセルはいつ見てもぴかぴかで、新一くんの子供とは思えないくらい落ち着いている。わたしはそれを見るたび自らの落ち着きのなさを振り返る羽目になるのだが、そんなわたしだからこそ彼らはわたしにひとかけらの冒険を許してくれるのだろうと思っている。何を伝えても子供の言うことだといって馬鹿にせず、正面からしっかりと受け止めてくれるのだ。わたしはそれが誇らしくて、だからこそ余計に彼のワトソンであることに没頭した。あまりに傾倒しているとみれば、新一くんは時折困ったように父を窺うけれど、基本的にはわたしの意思を尊重してくれる。
「新一くんが言ってたひと、特定したよ」
 スマホを口元に当てて釣りあがる口元を隠す。新一くんはそんなわたしを見た瞬間、ほんのわずか驚いた表情を浮かべ、それからややあって、思い出したようにぽつりとお礼を言った。てっきりいつものように呆れた顔を浮かべるのだと思っていたので、意外な反応にわたしはすこし驚いたのだ。
「どうしたの?」
「いや……オメー本当に父親そっくりだなって思ってよ」
「ほんと? やった」
 新一くんの目に見えているものが何なのかはわからないけれど、父に似ていると言われて悪い気はしなかった。友人たちのなかには反抗期を迎えた者もいるけれど、わたしは父を尊敬しているし、母とわたしのことをすっかり愛してしまっている父のことが、わたしもだいすきなのだ。
「そういやちびは警察官になりたいとは言わないよな」
「うん」
「父親に憧れたりしないのか?」
「パパは最高にかっこいいけど、わたしはそういうの興味ないから」
「……あんま危ないことに首突っこんでオメーの父さんに心配かけるなよ」
「それ! 新一くんに言われたくない!」
 からからと笑う新一くんに画面を見せて、呼び止めた本題へと話を戻す。一通りの説明を終えた後要件をまとめたメールを送信してしまえば、今度こそ用事もなくなったので、帰ろうとする彼を見送ることにした。
「随分と楽しそうだったじゃないですか」
「ゲッ! なんでここに」
「なんでもなにも、ここは僕の家だ」
 沓摺りを跨いだところで扉の横から含みのある父の声が降ってきた。途端、わたしたちのからだはぎくりと固まる。ささやかな悪戯を見咎められた子供のように居心地が悪かった。壁にもたれて腕を組む父を直視するのは気が引けて、新一くんの影に隠れて様子を窺うが、お叱りを受ける雰囲気とはまた違っている。なんだかいやに楽しそうだった。こうなった父は多くの場合、新一くんを巻きこんで事を解決しがちだ。とすると、ここからは彼らの舞台が始まるのだろうか。
 居間へ連れて行かれる新一くんの後を追う道すがら、父の特等席が眼に映った。小さな庭では瑞々しい青が地面の上に涼しげな陰を踊らせている。
 新一くんが家に来なかった数日の間に、長い雨は終わりを迎えていた。


 夕飯の後は家族の時間だ。わたしはすっかりその名残を消し去ったテーブルで次の日の予習をする。母は対面で三日ほど前から一生懸命真っ白なパズルを組みたてていて、父はすこし離れた場所にある二人掛けのソファをゆったり陣取って、食後のコーヒーを片手に何やら小難しい本をぱらぱら捲っていた。文字を追うときにはお馴染みになった軽いフレームの眼鏡が、ふとした瞬間音をたてる。間を彩るように聞こえてくるのは、試練に挑む母のうめき声だ。白いピースをくるくる回す母が可愛らしくて、役目を終えた筆記用具もそのままに、うろうろ彷徨うその手元を観察する。全力で楽しむ母のためにも余計な口は出さなかった。
 やがて空っぽになったマグカップを片手に近づいてきた父が、わたしと母とを見比べて、吐息だけでほのかに笑う。
「あんまり飲みすぎると夜寝れなくなっちゃうよ」
「はは、気をつけることにするよ」
 父の適当な返事を聞きながら、わたしはテーブルの上に出しっぱなしにしていた教科書を片付ける必要のあることを思い出した。変なところに折り目がついたそれを父がじっと見ていることに気づく。弁明が必要かと思い何か気になることでもあるのかと探りを入れてみれば、彼はそうではないと首を振った。
 あたたかな父の眼差しが、別の何かを懐かしんでいる。
「それ、面白い話?」
 ペンケースを手のひらで捏ねながら、父の顔を覗きこむ。不敵に笑う父は目尻の皺まで格好いい。
 勿体ぶった口ぶりで、君のホームズと出会ったのが丁度その頃だったからだと返す父は、次の瞬間声をあげて笑っていた。


2020.06.21 発行
降谷零の六つの人生区分を追う合同誌より ◆ 中年期