君は知らない

 目蓋の裏に貼りついた記憶はいつだって鮮烈で、そして同時にどうしようもなく霞んでいた。作業台の横に置いた一冊の本を指先でそっとなぞり、鮮やかな色のなかでひっそりと、けれど確かな存在感を放っているその少女へ思いを馳せる。
 わたしを今も夏のなかに閉じこめるもの。梅霖は雨と共に彼女を連れてきた。


 彼女に纏わる記憶の多くは学校と名のつくごく狭い空間のなかで完結している。
 振り返るともう十年以上も前のことだ。そのときわたしは小学一年生で、彼女は隣のクラスにやってきた転校生だった。元より頻繁に関わる機会のない距離で、実際にわたしが彼女をそうと認識して見つけたのは彼女がやってきていくらか経ってからであったが、一目見て、なんて綺麗なひとだろうと子供ながらに感嘆したことを覚えている。今思えばそれは随分と不躾な視線であったが、彼女はそういったものにすっかり慣れてしまっていたのか、取り立てて気にするような素振りは見せなかった。
 言葉にしてしまえばただそれだけのこと。特別な何かがあったわけではない。けれどわたしは不思議なことに、突き刺すように激しい日差しのなか、片陰にそっと佇む彼女から目を離すことができなかった。
 夏は日毎勢いを増し、耳を覆う蝉の時雨が誰かの声を遠くする。まるで恋にも似た憧憬を抱え、気がつけばその視線を追いかけていた。極彩色の世界のなかでたったひとり、浮かびあがるひと。その先には決まって一人の少年が立っている。そうして時折、眩しそうに目を細める。
 白い肌を滴る汗が、ひどくうつくしく見えた。

 少年は何でもできるひとだった。何を尋ねても答えを知っていて、物事の全体がよく見えているようだった。けれど、彼は確かにそこで息をしているのに、ふとした折、どこか現実味のない姿を見せる。彼女を追いかけた先で陽光に縁取られた彼はきらきらと煌めいて、その存在の幽微であることを際立たせた。
 そしてその認識はそう大きく過たないものであったのだと確信を得る。四季を巡り、新たしい春を迎える頃、そこに彼の姿はなかったからだ。

 日常の景色から彼の消えたことを知覚する度、彼女の視線はどこか寂しげに揺れる。けれどわたしは、少年の消失を迎えても尚彼女がここにいることが、まるで奇跡のように感ぜられていた。夏の幻のなかに見える朧げな輪郭が、彼女そのもののように思えてならなかった。
 けれども、或いは彼の後を追うようにいなくなってしまいそうだと思っていた彼女は意外なことに、わたしと共に成長の過程を踏むことになる。彼女が仲良くしていた少年探偵団たちは、中学高校と歩みを進めるにつれ少しずつその道を別つことになったが、わたしと彼女は関わりこそなかったものの、高校生を終えるまで進路を同じくすることとなった。そのなかで同じクラスになったことも何度かあったが、会話らしい会話をした記憶などはほとんどない。ともすれば、彼女はきっと、わたしのことなど知らなかっただろう。高校生になったわたしの目には殊更柔らかな表情でたった一人を見守る姿がよく映っていた。

 盗み聞きをするつもりは毛頭ないが、少年探偵団の元祖紅一点の声はよく通る。すると、自然と耳に入ってくる会話から、彼らの仲が良好で、今でも休日にはよく一緒に遊んでいることが把握できる。話のなかに頻出する登場人物についても、わたしはすっかり名前を覚えてしまっていた。少年との離別から入れ替わるように登場した人物は、中々の頻度で彼女たちの口から飛び出すけれど、わたしにはその理由がわかる気がしていた。
 過去に置き去りにした少年は忘れられることなく、彼らのなかに大きな割合を占めて存在している。
 わたしのなかの幻が、いまも目の前で息をしているのと同じように。

 その後美大を選んだわたしの日々からは、彼女の姿が忽ち消える。けれど、長年追いかけ続けたその姿は、些細な切欠ですぐに夏を呼びわたしの前へとやってきた。雨の匂い、伸びた影、はたまた小瓶に入った色とりどりの絵の具たち。このどうしようもない執着を、わたしはなんと呼べば良いのかわからなかった。燻らせ続けた彼女への感情を、ただ外に出して楽になりたかった。追いかけ続けた視線の先を、目を閉じれば見えるあの鮮烈な光景を、失う前に形にしたかった。
 そうしてわたしが作ったのは手のひらサイズのイラスト集だった。自分のために用意したそれを、友人の誘いもあって少部数だけ頒布した。スナップ写真集のようなそれは、何てことはない日常の切り取りをただ繰り返すだけのものでしかない。けれどそれは、わたしにとっては大切なものだった。何枚も、何十枚もの絵を描いて、ただそれだけを、思い知ったのだ。
 その行動は幸運にも、わたしに現在をもたらした。
 永遠に終わらない夏のなかを、わたしは今日も生きている。

 きっと知りようもないだろう。わたしがあなたと同じ景色を見ていたかったことを。
 あなたを通した世界がこんなにもうつくしく煌めいていることを。

   ◇

「よお灰原。元気にしてたか?」
「ええ。工藤くんも相変わらずのようね」
 日は傾き、赤々とした光が周囲に柔らかく影を落としている。薄手の羽織越しに感じる空気はほんの少し冷たい。そんな研究室からの帰り道、灰原は十年ぶん年の離れたかつての共犯者に出会う。小さい者同士並び立っていたかつてを思えば、随分と遠くまでやってきたように感じられる。
 本屋の前に差し掛かり、どちらともなく別れの言葉を口にしようとするが、その動作でお互いに同じ寄り道をするつもりであったことを知る。思わずといった様子で破顔した工藤につられて、灰原もまた頬を緩めた。
 工藤の目的は入ってすぐの棚に平置きされていたため、一瞬でお会計を済ませた後すぐに灰原の近くへやってくる。小難しい実用書か、気に入りの人物の載った雑誌か。さて今日の用事は何だろうかと推測し、答え合わせのために手元を覗きこんでくる。そして、自分の予想がどれも違っていたことに彼はほんの少し驚いているようだった。
「画集? オメーそういうのも見るんだな」
「ええ」
 鮮やかな色彩のなかひっそりと在る少女は、彼女がよく知る色合いをしていた。目の前に広がる画面のように肌を焦がす視線の苛烈さを思い出しながら、何とも言えない表情で、白い指先が半透明の帯をそっとなぞる。そこには、作家の特徴である極彩色を強調する文言が踊っている。

「同じ景色を見たいのよ」


2019.09.24