酒に浸った恋心をひとくち

 客観的に見て、わたしは利用価値のあったことだろうと思う。のびやかな環境で育ったわたしはあまりものを知らなかったし、没落して久しい旧家は父母の代で急激にその勢いを取り戻した。結果何かと人付き合いを必要としたものであったが、わたしには自身に求められる振る舞いが到底理解できなかった。
 父母は自信に満ちた様子で華やかな場所に立てるひとたちであった。けれど何かと世話を焼かれ、連れられるわたしにとってそれは、ただ苦しいばかりの時間であった。すっかり草臥れて外へ逃げることも多く、いつも木々の香りの中で自身を慰めてばかりいた。彼と出会ったのはそんな折であった。
「君、大丈夫か? 水でも貰ってこようか?」
「えっ……いや、大丈夫です……」
 よもや話しかけられることを想定していなかったわたしは整った言葉を用意できず、おどおどと不審な挙動で返事をすることになる。受け答えの様子を見てわたしの気疲れを察したのか、彼は砕けた調子で言葉を重ねていった。
 空間を同じくするのは、彼の認識する限りでは三度目になるのだという。到底周囲に気を回す余裕のなかったわたしには知る余地もなかったが、毎回外へと逃げ出す様子がとうとう気にかかって声を掛けたのだと軽い調子で教えてくれた。相方と一緒に居なくていいのかと尋ねれば、自分は足なので問題無いと返される。
 気を張らなくて良い彼との会話は神経質になりがちなわたしの心を大いに癒してくれた。気さくな彼の提案に甘えて、友人として連絡を取り合うようになるまでにそう時間はかからなかった。

 彼は思慮に富み、博識で、どんな話にも応えてくれた。わたしにとり都合の良すぎる彼のことを、わたしは心底好ましく感じた。彼は最後まで、確かに存在する翳りをわたしに見せることはなく、またそれを匂わせることもしなかった。
「君はすごくしっかりした人なんだな」
「それはどうだろう」
 本気なのか社交辞令なのかは分からないが、ふとした瞬間に持ち上げられる度、何かが満たされる気持ちと一緒にある種の恐れが顔を覗かせる。このひとがわたしのなかに、何らかの理想を探そうとするのが怖くて仕方がなかった。わたしは彼の言うような立派なひとではないし、自我を持っていることを褒められたところで、これが紛れもなく自分のものであると主張することはできなかった。ただ耐えられないことを耐えられないと言葉にするだけで、行動だけを取り上げていけば幼児とそう大差ない。
 捨てられなかったものに拘泥して後生大事に抱いていると、いずれ何も見えなくなることを知っていたが、どうすればいいのかはずっとわからないままだ。

「君のことが、好きなんだけど」
 出会ってから凡そ二年。その心地よい関係が崩れたのは彼の言葉によるものであった。純粋そうな彼は目元をほんの少し和らげて、照れた様子でわたしにそれを告げた。誰から見ても仲が良いことは明らかだったので、ある程度の勝算を彼は持っていたのかもしれない。
 そのときわたしの心に押し寄せたのは、ただ深い嫌悪感であった。続いた彼の言葉はもはや記憶に残っていない。
 わたしはその心が理解できなかった。ようやく得た話しやすい友人を、恋だの愛だのといったよくわからないものに奪われてしまうのかと、うんざりした気持ちだった。
 裏切られたと、一度思ってしまえばもう歯止めは聞かなかった。

 そうして彼は頑ななわたしを諦める。
 縺れた糸を解けない儘に、彼はこの世を去ってしまった。

   ◇

 はっと気がついたような心持ちだった。些事にかまけてまた大局を見失っていたのだと自覚したとき、わたしは自分が覚えているよりもいくらか若くなっていることに気がついた。思考を辿れば多くの知識が掘り起こされる。これから起こること、もう既に起こったこと、中身については種々様々である。
 直前までの思考を整理して自らの状況を俯瞰すると、湧き出るように事実が浮かび上がってきた。どうやら最後の記憶からは六年ほど遡り、今日は二十六の誕生日であるようだった。奇しくも、彼と初めて会話した日である。
 彼のことを思い出す度に浮かび上がるのは、ただ一欠片の寂寞と、未だに血を流して痛む心であった。けれども、彼の言葉の全てが嘘ではなかったにしろ、真実ばかりでなかったことを、わたしはそのときはっきりと知覚することになる。
 この不思議な現象を、わたしは『逆行した』のだと言語化することができた。巻き戻る前のわたしはそれを知らなかったが、今のわたしは正しく知っている。わたしという人間の大元を作り上げたものはこの世にはなく、これより先に起こる全ての事象は、原作と呼ぶべき神の箱庭での出来事だと、すっかり思い出してしまったが故であった。
 それに気づいたとき、わたしは確かに安堵を覚えた。裏切られた心持ちで彼の言葉を切り捨てたが、裏切るも何も、そもそもの前提から間違っていたのだ。
 途方もない脱力感が身を苛むが、もう馴染んで久しい諦観と共にそれを飲みこんだ。

 かつての記憶のように、わたしは彼と知り合うことになった。以前は気づかなかった彼のさり気ない誘導を察する瞬間もあった。どのように利用されたところで大義のためならそう悪いことにはならないだろうと、それらを素直になぞっていると、以前よりも少しだけ彼はわたしに対して過保護になった。彼の事情を知って成り行き任せにしていることを知らなければ、成る程確かに危うい印象を受けるのかもしれない。優しい表情も柔らかい声も何一つ変わらないが、彼は前回とはまた違った顔を見せ始めた。
 端から穿って物事を見ていけば、今まで知りもしなかったことを見つけてしまうものだ。彼の接触と箱庭の知識から、自分が恵まれた位置にいるようで、その実いつ砕けるかもわからぬ薄氷の上に立っているのだと知ることになった。具体的に言うと、父母の成功の裏に後ろ暗い事情があったのである。道理で彼がわたしに当たりをつけたわけだと納得すると共に、前回の彼の告白が作為的なものであったと愈以って証明された心持ちであった。
 そうして全てを察したわたしのとれる行動はそう多くない。生を繰り返した理由はわからずとも、切っ掛けは推測することができる。所謂箱庭の行き止まりだ。
 そういえば、彼の終焉とはどういったものであったのだろう。人づてに聞かされた彼の死は、わたしに多くは齎さない。結局そう長く生きられぬ命なら、彼の道筋を辿る人生があってもいいのではないかと思われた。

「珍しい趣味だよな」
「よく言われるけど、ハマったのは結構最近なんだよ」
「へえ、そうなのか」
「うん。最近は錆びた階段をのぼるときの足音聞くのがすき」
「なんかマニアックだな」
 原作の知識なんてものはあったところでさして役に立たない。確か彼は長袖だったから、きっと寒くなってからの出来事だろう。足音の響く廃ビルの屋上で、周囲はそこそこ開けていたような気がする。
 そんな曖昧な情報だけで彼の最期の場所を見つけるのは難しい。ある程度場所を絞って、後は手当たり次第にそれらしいビルをあたった。自分の足音の跳ね返りが心地良く感じられるほど、それは身近なものになった。

 今度こそは正しく結べるだろうか。
 あのあたたかな一欠片を、もう一度失いたくはなかった。

   ◇

 果たして、彼の終幕は訪れる。わたしがその場所を見つけたのは清掃が入った後のことで、それらしい跡をなぞっても、矢張り実感するには遠かった。
 彼の道の終端にわたしはなく、その逆もまた然りである。
「ありがとう、景光くん」
 終ぞ教えてもらうことのなかった名前を、わたしはそのとき初めて静かに飲みこんだ。


2019.11.06
twitterでの作者当て企画第二回参加作品
今回は有志の方が企画へ提供くださったお題をそれぞれ割り振られて執筆する縛りでした
「酒に浸った恋、心をひとくち」というアプローチで考えました