いつだって一緒だった

 ひとのままで在りたかった。だからわたしは行方を眩ませたのだ。


跡切の中

 朝、目を覚ます。冷えてきた空気は肌をちくちくと刺すけれど、清浄な感じがしてわたしはすきだ。ひんやりとした水に両手をくぐらせ身支度を整える。寝台の傍の窓から柔らかな日差しが入りこむのを尻目に台所で軽食を用意し、いくらかの摘み食いを朝御飯にして残りはお弁当に手荷物の中へまとめた。家の中に向かっていってきますと小さく呟き、施錠だけはきっちりと済ませて外へ出る。するとわたしに気づいた町のひとたちが優しい声でおはようと言うので、わたしはもう随分慣れた外国語で、それでもネイティブに比べたらずっと拙い挨拶を返す。
 早朝ではあるがこの辺りの住宅地は活気づいていた。建ち並ぶ家々を過ぎ去り大通りへ向かう。左に曲がった先にあるひときわ大きな銀杏の木を目印にしばらく進めば、その先にはわたしの勤め先がある。職場は現在の仮住まいからそう遠くはない。やんごとなき方の目に留まったわたしは自分の研究の傍ら、自らの持つ知識を相手に与えて生活している。砂漠を越え、国を渡ったのは正しく逃げであり、隠居を心に決めたからであったが、結局この道から離れることはできなかった。
 ほどなくして目的地へ到着する。大きな屋敷だ。きれいに整えられた広い庭を通り抜け、与えられた研究室に足を踏み入れる。勤め先とは言ったものの家主からはほとんどお客さんと変わらない扱いを受けているように思う。屋敷の主人は異邦人のわたしに対してとても親切で、様々な便宜を取り計らってくれた。後継者争いで不穏な状態の続く国だが、かつてを思えば勿体ないくらい、わたしは環境に恵まれていた。
「おはよう、
「おはよございます」
 部屋には出しっぱなしにしていた研究書がそこかしこに散乱していた。ご自分の家なので好きに出入りされることに異存ないとは言え、およそ主人をお招きできる状態ではなかったなと苦笑が漏れる。わたしが来たときには既に、主人は興味深げに散乱した紙たちを見つめていたが、一見して暇を頂いていたここ数日の間、誰も立ち入れず何にも触れずにいてくれたことを察して感謝の念を溢す。随分ときりの悪いところで区切ってしまったものだったが、あと少し時間をかければ形にはなりそうだ。そわそわした様子の主人に午後になれば時間が取れそうなことを伝えると、嬉しそうに食いついてくる。錬金術に興味を示す家主にそれを教えるのはいい気分転換になるし、自分の中で物事を整理するのに役立つので、わたしとしても悪い時間ではない。
 さてそろそろ。わたしがその辺の床の適当なところに腰を下ろして散らばった紙を手に取ると、主人はにこにこと笑みを浮かべながら静かに退室した。
 そうやってわたしはひどく充実した日々を送っている。


分岐の折

 国のためになにかを成そうと思ったわけではなかった。国家錬金術師になろうなんて連中は、きっとそんな人間ばかりだとおもう。そんな偏見を持っている。わたしがその選択肢を選んだのだって、他にどう振る舞えばいいか分からなかったからだ。
 幼い時分より他者よりも多くのことがよくわかった。小賢しく扱いづらい子供だっただろうに、両親はわたしを変に誉めそやしたり、逆に投げ遣りな態度で接したりなんてこともしなかった。わたしはそんな両親のことがだいすきだったし、尊敬もしていた。
 そんな環境ががらりと変わったのは母が亡くなったときである。家の前に植わっている木苺が実り始めたころ、母はわたしたちの前からいなくなってしまった。
 父もわたしも心の準備はできていた。母もまた、わたしたちに別れを告げる準備ができていた。自分の命が残りわずかであることを知る前から時間をかけて、母はわたしにたくさんの言葉や教えを与えていた。だから寂しくは感じても悲しくはなかった。わたしが生きてさえいれば、自分の行動や思い出の中で母にはいつでも会えるからだ。
 父はひどく意気消沈していたが、わたしと繋ぐ手は力強かった。そうして何日か考え込んだ後、結局二人暮しには広すぎる家を離れて、もう何年も帰っていないという故郷へわたしを連れていった。今はもう失われた帰る場所。土と砂に覆われた、未だ記憶に新しい戦火の街。──そう、イシュヴァールだ。
 何かと対立していたアメストリスとイシュヴァールであったが、わたしの見た目がほとんどアメストリス人であるにも関わらず、父の故郷で迎え入れてくれた人々は優しかった。
 イシュヴァールでの暮らしは悪くなかった。イシュヴァラの教えは全く理解できなかったけれど、ひとびとはすきだったからだ。ただ、教義と錬金術は相容れないものであったので、わたしはしばらくの間家から持ってきていた技術書の類を隠すはめになったのだけれど。
 様々なひとと関りあうのはそれなりに興味深かったが、そんな生活に耐えられたのは最初の一週間程度だった。今振り返ってもよくもった方だったと思う。父と二人越してきた家には元々祖母が暮らしていたし、狭いコミュニティは千客万来で隠し事をする手立てもなかったので、わたしが大人たちの目を盗んで分厚い学術書と共に外出するようになるまでそう時間はかからず、毎日のように人気のない場所を探してはこっそりと探究心を満たすようになったのも当然の流れであった。あるときは路地裏の大岩で、あるときは崩れた建物の片隅で。基本は屋外だったので、雨が降るとお預けを食らうのが苦しかった。
 とは言うものの、わたしがその行動をとりだして一月も経つ頃には、大人たちの間で公然の秘密になっていたことだろう。変わらず人目を憚るように知識を貪っていたが、いつからか普段から遠巻きにされることが増えたし、神が作ったものを人間が勝手に作り変えてはいけないよという話を毎日熱心に聞かされるようになったからだ。それでも大人たちがわたしの行動に大っぴらに口を出して止めなかったのは、わたしが表立って錬金術の概念を持ち出さなかったからだろうと推測している。わたしは自分の知識欲さえ満たされれば後はどうでもよかったので、その知識を誰かに伝えたり、そもそもそんなものを黙々と勉強しているということすら誰にも教えたりしなかった。言ったところで彼らには理解できないだろうし、そうであるなら話すだけ無駄だとおもったからだ。それに、これ以上距離を置かれる理由も作りたくなかった。この頃わたしは子供たちの輪の中でも明らかに村八分にされているようだったので。
 話の合わない同年代の友人なんてわたし自身は欲していなかったが、父はそうではなかった。父はわたしに普通の子供らしく成長することを望んでいて、同年代の子供と触れ合う機会を持ってほしいようだったから、それについては振舞い方を考えなくてはいけないと思っていた。けれど、価値を感じられないものに一生懸命にはなれない。何度か話しかけてみたり、色々腐心してみたが、相変わらず前述した通りの距離感であったので、途中で開き直ったくらいにはさっぱり上手くいかなかった。悪魔の子だって聞いたよ、なんて無邪気に話す声が聞こえたとき、わたしは歩み寄ろうと考えるのを諦めたのだ。わたしはイシュヴァールの中で、正しく異邦人だった。
 見逃されていた理由に推測できる要素がもうひとつある。そのときは知らなかったのだけれど、彼らの中にも錬金術をただ遠ざけるのではなく迎合しようと考えるひとたちが存在していて、そこで度々口論が起こっていたようだった。外からやってきたクォーターの子供がひとり黙々と読書に勤しんだりこっそり理論を試したりしているのは、それに比べれば瑣末なことだっただろう。
 残念なことに、集落のひとびとに対する興味はそこでなくなった。相変わらずいいひとたちではあったけれど、自ら進んで停滞を望む気持ちがわからなかったし、それによってわたしの進みたい道にけちがつくのが嫌だったのだ。わたしの世界は再び「わたしと両親とそれ以外のひとたち」に回帰する。そんな生活を半年ほど続けたところで、十一歳のわたしは彼らに出会うことになった。先だって出てきた『彼ら』だ。

「こんなところで錬金術?」
 ある日わたしが隠れて錬金術を試していると、不意にそんな声が降ってきた。現場を押さえられてしまってはしらばっくれようもない。しぶしぶ顔をあげるとそこにわたしを嗜める大人の顔はなく、彼はわたしよりいくらか年上で、子供とお兄さんの境目くらいの見た目をしていた。いや、少しお兄さん寄りだったかもしれない。
「まだ小さいのにすごいじゃないか」
「こんなの、難しいことじゃない」
 両親以外に誉められることに慣れなかったわたしには謙遜や社交性というものが存在せず、彼との初めての会話というのはそういった不遜なものだった。侮って悪かったとすぐに謝罪をした彼に当初は何も思うことなく、ただこのひとは告げ口はしなさそうだと判断したことだけは覚えている。錬金術に興味を示し、尚且つそれを実際に使える子供というのはこの土地では珍しかっただろう。それから彼はたびたびわたしの元を訪れるようになる。彼はわたしの知識に興味を示し、まずはその中身を確かめたいようだった。方向性が一致すればお互いに利益を得られるし、例え重ならない研究をしていたとしても学ぶことは無駄にはならない。
 最初は関わりあうことを躊躇った。彼自身を見てそう判断したというよりは、『彼ら』がわたしにとっての障害になることを警戒したのだ。これだから外の風を入れるべきではなかったと言われるのは単純に不愉快だし、これ以上大人たちの心象を悪くしても面倒臭い。逆にわたしに関わったことで彼らがやいやい言われても、それでわたしに火の粉が降りかかっても、なんにせよ煩わしいことに変わりはない。あまり通われても大人に見つかるリスクが高まる。最初は数日に一度わたしのところにやってくる程度だったのだが、頻度はしだいに増えていく。錬金術絡みでこの土地の人間と一緒にいる場面を大人に目撃されるのはどうしても避けたかったので、仕方なくわたしは今まで以上に行動範囲を広げて人気のない場所を転々と探し回った。厄介なことに彼はわたしを見つけるのがひどく上手だった。先ほどからずっと出てくる彼というのは、唯一無二のわたしの友人。後のイシュヴァール殲滅戦が生んだ復讐者、傷の男と呼ばれるひとの、兄である。
 彼が上手だったのはわたしとの距離の詰め方だ。わたしが面倒事を遠ざけたがっているのを察し、最初は錬金術の概念を会話の上に持ち出さなかった。とはいえ、わたしは他人に興味がなかったので話の大半を聞き流すことが多かった。彼もそれは分かっていた。しかしそれでもいくらかは頭の中に入ってくる。季節のことや近所の子供の話など、話題は多岐に及んだが、一番多かったのは彼の家族の話だ。そんなことを繰り返してしばらく、ある日突然彼の考え方がひどく好ましいことに気がついた。飽きもせずやってくる彼に、意見を求められれば返事をするようになったのはこの頃からである。わたしが興味のベクトルを彼に向けるようになってから、彼は初めてわたしの持つ錬金術についての知識に触れるようになった。わたしは起こるかもわからない面倒事よりも、彼と意見を交わす時間の方を優先するようになった。今まで錬金術の話ができるひとと関わったことがなかったので、誰かとこうして話ができるのは存外嬉しいことだというのをそのときはじめて知った。
「今日はあんたの話が聞きたい」
「めずらしいな。私の話を聞きたがるなんて」
「だめ?」
「いいや。何を話そうかな」
「弟がいるってどんなかんじ?」
「ああ、は一人っ子だったっけ」
 雑談が楽しいのも久しぶりだった。わたしは彼が弟の話をするのがすきで、気が向いたときにきまってそれをねだった。話に出てくる彼の弟は、物語に出てくるヒーローのようだった。
 そうかこれが友達というものか、とわたしがやっと彼の存在を認識したとき、『彼ら』が集まって錬金術の研究をしているという場所にお呼ばれすることになった。彼がよくわたしの話をしていたからか、見た目や年齢で侮られることもなく存外容易にその場に溶け込むことができた。錬金術という繋がりに重きが置かれたその空間は、肌の色や目の色が集落のひとたちと違うわたしにとって居心地がよく、今まで寄り付かなかったのが嘘のように日参するようになる。

*

 そうして過ごしていくうちに気付けば一年が経過していた。七年続くことになった内乱が勃発した年だ。切っ掛けになった子供が撃ち殺されてから、髪の色以外アメストリス人そのものなわたしは外を出歩く時間を減らした。元々あちこち動き回る質ではなかったので暮らしぶりにこれといった変化は無かったが、意識して彼らの研究所と自宅以外の場所には行かないようにしていたのは事実だ。
 すべてのひとがわたしとアメストリス人を切り離して考えられるわけではなく、この辺りに住むすべてのひとがわたしのことを知っているわけではない。今は傷痕深く、不用意に負の感情を呼び起こすわたしの見た目は諍いの種にしかならないと判断したから、自分にとっての利を選択しただけである。わたしに不満はなかった。やりたいことはできていたし、わたしに関わろうとするひとはわたしに対して親切だった。一人だけだが友人もいた。わたしがそうやって引きこもることを気にしたのはその友人や、わたしの父だった。彼らのことを思うなら、わたしは寧ろ集落を離れるべきかもしれなかった。
 しかしわたしはそれから二年ほどはイシュヴァールの地を離れなかった。父が体調を崩したというのが大きな理由としてあったが、一番は単純に家族や友人から離れるのが嫌だったからだ。母から遅れること約四年、後を追うように父もこの世を旅立った。父はあまり強いひとではなかったので、荒れた国を生き延びる気力はなかったのだとおもう。最後までイシュヴァールに馴染めないわたしを心配していた。そんな父を心から安心させてあげられなかったのが、唯一やり残したことと言えるだろう。優しく善良なひとだった。これから広がる凄惨な光景を思い起こせば、父がそれに対面する前にこの地を離れることができたのは、わたしにとっても救いであった。
 祖母は存命だったが、わたしは国家錬金術師になることを理由に土地を離れることにした。ただし、その理由までは唯一の友人である彼にしか話さなかった。まさに今この土地のひとびとと対立している軍に飛び込もうというのだから、馬鹿正直に話せるわけもない。彼らとの研究は楽しく、まだまだ知りたいことはたくさんあった。国家錬金術師になれば一般では閲覧できない資料に目を通すことができる。わたしがそうすることでイシュヴァールの心を乱す心配もなくなり彼らとの研究も進むのなら、これ以上にない選択だと思った。そのときは「軍に忠誠を誓うべし」の示す本当の意味が分からなかったのだ。
 彼はわたしに考え直すよう何度か繰り返したけれど、いくらか思考を巡らせた後に気をつけるよう言い含めてわたしを送り出した。日がな一日研究所に引きこもるわたしの姿に心を痛めていたようなので、彼にも思うところがあったのかもしれない。進展があればこっそり帰ってくることを彼に伝えて、わたしはすぐに集落を後にした。
 余談だが、彼らと共に居た数年の内に何度か彼の弟に会う機会もあった。殆どが兄に苦言を呈しにやってくるときだったので、弟からの覚えはさぞ悪いことだろうとおもう。

 飛び出したその年に国家資格を取れたのは僥倖だった。与えられた二つ名に興味はなく、ただイシュヴァールでの研究の続きに没頭した。それとは別に、自分の勉強も続けていた。どちらも重なる部分があるので完全に別個のものではないのだけど、イシュヴァールでの研究をアメストリスで見せようとは思わなかった。それから約五年の間わたしは国家資格を保持し、イシュヴァール殲滅戦を最後にこの国を離れたのである。
 同胞を殺すのはどんな気分だろうか? 少なくともわたしは、イシュヴァールの民を同胞だと思ったことはなかった。殲滅戦に徴兵されることが決まったとき、真っ先に浮かんだのは彼の顔だ。言い渡された地区に彼がいなかったことにどれだけ安堵し、また絶望したかわからない。再びイシュヴァールの地を踏んだ日の夜、人目を忍んでわたしは育った場所へと足を運んだ。彼らと行動を共にする前、人目を忍んでページを捲った路地裏の大石の上。両ひざを抱えて蹲っていると、どうしてかやはり彼が来てしまうのだ。
「お帰り
「もうきいた?」
「ああ、聞いた」
「わたしもいくよ」
「ああ、知ってる」
「あんたもわたしを人間じゃないっておもう?」
「……いいや」
 彼はそこで一呼吸おいて、わたしの頭に手を乗せた。じんわりと温かさが伝わってきて泣きたくなる。なくしたくなかった。でもきっと、それは叶わないのだろう。
「おまえが人でいたいならいつでも人でいられる」
「そうかな」
「そうだ。だから、おまえは人のままでいてくれよ」
 それが最後だ。残された言葉の意味をわたしは未だに考える。

 わたしが拒んでも他の誰かが殲滅する。それならせめて苦しまなくて済むように、わたしが一息に葬るべきだろう。興味の幅は狭く、外側に対して冷たかったかもしれないが、わたしは別にひとを殺したいわけじゃない。ここではイシュヴァール人はただの数字でしかなく、わたしは毎日それを零にするために錬金術を行使した。最初はただ面白いから錬金術を知りたかっただけなのに、いつしかわたしの知識はひとを殺せるようになってしまっている。化け物だ、国軍の誰かがわたしの後ろで呟いた。
 ある日わたしはミスをした。そのとき確かにその地区で動く人間を零にしたはずだったが、何の手違いか後からひとつ出てきてしまったのである。今日の仕事は終わったものとおもって、手慰みに考えていた錬成陣を地面に落書きしていたところだったので、ひどく驚いた。そしてまたその相手が顔見知りだったものだから余計に混乱した。互いに動きがとまる。
……?」
 武器を振りかざして向かってくる相手の名前を知っている。相手は単なる数字ではない。数字はわたしの名前を呼ばない。
 混乱したわたしはそのとき描いていた錬成陣を発動させてしまった。どうしてお前がここにいるんだ、そう言いかけたのだろうに、青年は最後まで言葉を続けることができなかった。断末魔の叫びと共に青年が崩れ落ち、やがて息を引き取った彼の口から小さな結晶が零れ落ちる。わたしはとうとう生きた人間で実験をしてしまったのだ。彼の死を悼むべきなのに、出来上がった成果物がわたしの関心を攫っていく。そのとき彼の言葉は聞こえなかった。何よりもそのことに絶望した。
 次の日、爆弾狂の男がわたしの育った場所を焼き払ったことが風に流れて耳に入ってきた。知らないひとが何人死んでも、知らないひとを何人殺しても、ただわたしの大切なひとさえ生きていれば幸福だったのに、どうしてそうはなってくれなかったのだろう。心に浮かんできた本音はわたしを打ちのめすのに十分で、ダリハ地区の陥落をもって戦争が集結すると、わたしはすぐに資格を返上して砂漠を渡ったのだ。


決起の時

 久しぶりの休日にクセルクセス遺跡へ足を運んだ。アメストリスを出たときは散策をする余裕などなく、落ち着いたらもう一度来たいと思いながら、時間ばかりが過ぎてしまった。前回ここを通ったときは十代だったのに、いつの間にか四捨五入すれば三十になるところまできてしまった。かつては停滞を望む気持ちが理解できずに散々忌避したものだったが、ここ数年の自分はどうだろうか。技術的には確かに進歩し続けているのかもしれないが、胸を張って前に進んでいるとは言えない。でもそれでよかった。わたしの力を悪魔の所業に用いようとするひとはシンにはいない。仮にだれかがわたしの知識を悪用しても、わたしの良心には反しない。それだけで、わたしはひとのまま生き続けることができる。それがいまのわたしの望みだった。
 しかし、人生とはそううまくいくものではないらしい。
 わたしを連れてきてくれたひとには別に用事があったので、後で合流する約束をしてわたしはひとり水場を後にした。しばらく歩いて大きな壁画の前で足を止める。描かれている錬成陣は上部が欠けていて読み取ることはできない。一夜にして滅んだ国にはどんな技術があったのだろうか。深く考え込みながら足を進めていると、知らず識らず深いところへと迷い込んでいた。これも醍醐味かと暫く散策を続けていると、複数の足音と共に知らないひとの声が聞こえてくる。暫くは知らん振りをしていたのだが、足音が止まってからも一向に立ち去る気配がないのでこっそりと距離を詰めてみることにした。近づいてみると懐かしい、その話し声はアメストリスの言葉だった。
 彼らは輪になって真面目な話をしているようだった。漏れ聞こえる範囲だけでもどうにもきな臭い話題であったので、聞かなかったことにしてさっさとその場を離れてしまいたかったのだが、前線を退いて久しいわたしでは聡いひとたちを相手に誤魔化すのは難しかった。結局対面することになり姿を現わすことになる。顔を上げて見知った顔があったことに、わたしも相手も驚いた。いや、相手は半信半疑くらいに思っているかもしれない。相手はまるで変わらない見た目をしているが、わたしは相手に最後に会ったとき、まだ十代であったので。
「……こんな所に居たのだな」
 しかしながら、言葉を発したのは相手の方が早かった。相手にはどうやら確信があったようである。
「少佐、知り合いか?」
「うむ……おぬしも名前くらいは聞いたことあるのではないか?」
 その言葉に五人分の視線が集まる。こんなに注目されたのはどれだけぶりだろう、どうでもいいことを考えながら、久しぶりにアメストリスの言葉を紡いだ。
です。以前、国家資格を持っていたことがあります」
……って大佐が言ってた……!」
「大佐?」
「ロイ・マスタングのことだ」
「……?」
「焔の……」
「ああ、あのひと。まだちゃんと生きてるんですね」
 どうやらわたしのあずかり知らぬところで話題にだされていたらしい。終戦直後に姿を消した国家錬金術師など腐るほどいただろうに、不思議なことをするものだ。
 それから話が進んでいくと無実の罪を着せられて亡命してきた女性を家に匿う流れになり、その後わたしの研究に興味を示した少年といくらかの会話を交わす。元よりこの旅行の前に「訳ありのひとをひとり住まわせてほしい」と聞かされていて、その訳ありのひとというのがまさにこの女性のことであったのだが、そんな事情だとは勿論知らなかったので、この時点でわたしは面倒事とは無縁でいられなさそうな空気を感じていた。一緒にいた歳若い少年は十五歳。奇しくもわたしが国家錬金術師になった歳と同じだった。だから親近感を覚えたのかもしれない。普段なら聞かなかった話を、自分から聞きにいってしまった。
 金髪金目の小さな少年は誰も傷つけたくないと言う。そうやって綺麗事の中でもがき続けている。わたしも、もうなにも害したくはなかった。そのためには自分のために研究を重ねて、そうやって満足して生きて、そして死ぬのが一番良いのだと思っていた。彼の言葉が脳裏に蘇る。
さんと話せてよかった」
「わたしも、きみに会えてよかったと思う。もしシンに来る機会があればうちに寄るといい。研究所を見せてあげる」
「ありがとう。そんときはよろしく頼むよ」
 この邂逅が、結果的にわたしを再びアメストリスの地に立たせることになった。直接的な要因は、マリア・ロスの存在だった。約束の日に、彼女は再び戦場に立ち向かう。おそらく彼女の方がいくらか年下ではあるが、わたしとそう大きく変わらないはずなのに、この差は一体なんだろうか。わたしが囚われつづけた彼の言葉、何年考えても辿り着けなかった答えがそこにあるような気がした。シンに渡って気づいた錬金術の違和感。彼の残した言葉、研究、それらすべて。彼らと考えたアメストリスという国の秘密。長年蓋をしていたものに、わたしは漸く対面する勇気を得たのである。

 彼の与えた言葉のひとつが、いまもわたしの道を作っている。


2017.12.06
「いつだって一緒だった」
Dreamer's Friendship Party! 3 様に提出