稜線

 遠くの山が光に縁どられてきらめいている。手前にはまだ薄暗い段々畑が整列し、その合間に地価の高いシュートシティなどではあまり見られないおおきな一軒家がぽつりぽつりと立ち並んでいた。お隣さんと呼ぶには距離のありすぎるそれは、このターフタウンではごく当たり前に見られるものだ。
 おれの住む家は、この町の特徴であるすり鉢状になった土地の半ばほどに位置していた。自室は二階にあるが、見下ろす地面はさらに遠い。室外機の上に置いていたジョウロを手に取りベランダの植木鉢たちに水をやっていると、眠い目を擦りながらおれの親友がのそりのそりと歩いてくる。
「おはよう、マホイップ」
「きゅいん……」
「はは、まだおねむ?」
 新しい生活に彼女が染まるには、どうやらまだ時間がかかるらしい。おれよりもうんとちいさい彼女の、ふわふわとやわらかい手をひいて、彼女が熱心に世話をしている鉢植えの前へと連れだしてやる。白い腕がうろうろと中空を彷徨うので、持っていたジョウロを手渡してやると、彼女はふすんと力強い息を吐いて、鉢植えに水をやりだした。底から溢れた水が受け皿を満たし、やがて足元へ流れだす。
 しとどに濡れたベランダが、まばゆい光を反射するので、おれはそのとき随分はっきりとした自身の輪郭を認識したのだ。


 日の出とともに布団から這い出る生活は、いままでとはあまりに違いすぎていた。静謐な朝の空気にからだをなじませて、まだ眠たそうなおれのパートナーを抱えあげる。荷台のうえにそっと降ろしてガタゴト引けば、きっと寝心地なんて良くないだろうに、またうとうとと微睡みはじめたようだった。
 畑に到着して彼女を覗きこむと、振動が止まったことに気づいたのか、普段はおおきな目をこすりながら周囲の様子を確認している。おもむろに腕を差しだせば、おれがマホイップに触れるよりも先に、彼女のちいさな手がおれに絡みついた。見た目よりうんと丈夫なからだを胸に抱いて、いまはまださみしい段々畑をふたりで見下ろす。
 おれの唯一のパートナーがいまよりもずっとちいさかったころ、両親の田舎に遊びに来ていたおれは、町の近くの草むらで彼女に出会った。時間を忘れて、初めての友達と遊ぶことに夢中になってしまったから、まだ幼いおれはとっぷりと日の暮れた景色のなかで途方に暮れることになる。心細くなって、一日のあいだにすっかり仲良くなったマホミルを抱えると、彼女は慰めるようにそっと寄り添ってくれた。両親や祖父母、果ては近所のひとまで巻き込んだ大騒ぎに発展した事件ではあったが、仮に時間を巻き戻すことができたとしても、きっとおれは同じことをするだろう。朝方になって畑の近くまで帰ってきたところを保護されて、それはもうこっぴどく叱られたものだったが、あの日があったからおれはいまこうして彼女と一緒に過ごしていられる。

 ある日突然住み慣れた真っ白な街を離れて、祖父母の暮らす田舎へと居を移した。おれとしては突発的な行動ではなかったわけだけれど、身内からしてみればそうは見えなかったらしい。最低限の荷物を持ってターフの土を踏んだおれに、祖父母はやはり一言目には無理に継ぐ必要はないと言ってきかせたが、そんな言葉で変わる決意ならおれはそもそも住み慣れた土地を離れようとは思わなかっただろう。彼らは自分たちの仕事に誇りを持っていたけれど、次代を担う者がどこにもいないことをもうずっと前に受け止めていた。
 体力の衰えとともに、どうしても手の回らない部分は増えてゆく。同じく一次産業に従事する叔母夫婦が時折様子を見に行っていたようだが、これはいよいよ決断のときがきたのに違いないのだと彼らは考えていた。おれが祖父母に声をかけたのは、そんなときだった。
 両親には何度も説得を受けた。当の祖父母ですら考え直すように言葉を重ねた。けれどもおれは、そのどちらもを跳ねのけた。両親が自由な選択をしたように、おれもまた代々続く土地や思い出を守ることを選んだだけなのだ。
 とはいえ、いままで土仕事とは無縁に生きてきたおれが急に順応できるかと問われれば、世の中そんなに甘くはない。気持ちはあのうつくしい畑に向いていても、不安は絶えずそこにあった。けれども、期待のほうがずっとおおきかった。いままでを捨て去る覚悟でここまでやってきたけれど、農閑期には趣味に没頭することだってできたし、それが収入につながることもあった。畑仕事を手伝えないマホイップのためにいくつか用意したベランダの家庭菜園は、どうやら随分と彼女のお気に召したようで、一歩一歩成長していく姿にふたりで一喜一憂するのはとても楽しかった。
 結果的に、おれは生まれ育った町よりも、ずっと自由に生きることができている。

「きゅいん」
 あまくやわらかな声がして、おれは汗をぬぐいながら振り返る。緑に染まったすり鉢状に連なる畑を見上げると、えも言えぬ達成感があった。まだまだ道の半ばだというのに気の早い話である。軽く首を振って邪念を払い、さて明日は何をするかと思案する。
 やらなくてはならないことはまだまだ山積みだった。



 遠くの空が明らむころ、まだなんとなく肌寒い空気のなかにまろびでる。いつのまにかおれよりもうんと早起きになっていたマホイップが、たしたしと窓を叩いていた。カーテンを引いても部屋の暗さにほとんど変化はないけれど、軽い音を立てて開いた窓から入りこむ初夏の香りは、不思議とこころを落ち着かせる。

 ベランダの鉢植えにちいさな赤い果実が実った。嬉しそうにおれの袖を引くマホイップが、あまいにおいを漂わせている。窓際の棚に置いてあったラタンの籠を差し出せば、彼女はひどくやさしい手つきでもって、ひとつ、ふたつとまあるい果実を摘みとった。背の低い彼女では届かない位置の茂みをおれがかきわけると、未熟な青から成熟に至る過程をめいめいに色づかせているのが見てとれる。そのなかからいま手にとれるものを選んで彼女のやわい指先に乗せてやると、きゅいんと高い声がベランダのうえでぽんぽん弾んだ。
 冷たい床にそっと腰をおろして欄干の隙間から足をだす。眼下に広がる段々畑が、朝焼けに照らされてきらきら揺れていた。おれたちを撫ぜるように過ぎてゆく風がさざなみのように広がって、不思議な色彩を網膜に焼きつかせる。
「きゅい」
 隣に立つ親友がいつの間に摘んだのか、まだ色の浅い果実をひとつ突きだした。
 遠くの光を反射してきらめくそれは、おれたちの愛する思い出と同じ色をしている。


2021.05.25