永訣の朝

 暗緑色の木々に覆われた森を抜ければ、巨木をくりぬいた居住区へと至る。触れると光る色とりどりのきのこは光源として優秀だったけれど、それ以上にこの土地に対するひとびとの認識へ神秘性を与えるのに一役買っていた。
「ちい、おはよう」
 町中にあるおおきなきのこのうえでくつろいでいると、足元からおおきな友人の声が聞こえた。今日も待っているのかい? なんて問いかけに、そうだよと言って頷くと、ぼんやりとした光が視界の端っこでゆらゆら動いた。
「ほどほどにね」
 わかっているよ、ありがとう。深く頷くぼくをみて、あの子はゆっくりと踵を返した。町の奥へと向かう背中を見送っていると、いまはいないぼくの親友を思い出す。ぼくの諦めきれない気持ちを汲んで、ぼくの行動を妨げないあの子は、いつの間にかいちばん長い付き合いになっていた。
 ここは町の入口がよく見える。この場所で日がな一日ひとの動きをじっと観察するのが、もうずっと続けているぼくの日課だった。
 不思議な光に満たされたこの町は、たとえ昼間であっても日の光があまり入ってこない。深海のような静けさに安堵を覚えて、いつしかぼくはこの町に根を張るようになった。農業や牧畜のようなわかりやすいものではないけれど、僕はほかのどの町よりも、自然やポケモンとひとびとが共存する町だと思っている。

 ふと、子供のはしゃぐ声が聞こえてきて、ぼくは音のするほうへと振り向いた。馴染みのあるそれは近所に暮らす女の子のもので、視線に気づいた彼女がちいちゃんおはようなんて、おおきな身振りで手を振ってくれる。ちいさく笑ってぼくもゆらゆら振り返すと、彼女はまた満足そうに家の前を駆けてゆく。向かう先には彼女の祖父の姿があった。あんなにちいさかったのに、もうすっかりおじいちゃんが板についているなあ、なんておもって、ぼくは過ぎ去った年月に思いを馳せる。
 この町に暮らすひとびとは幼い子供や引退した世代がほとんどで、働き盛りの若者たちを日中この町で見かけることはあまりない。絵本のなかにあるような町並みに、すこしずつ人通りが増えてきたから、きっといまは昼が近いのだろう。そんなことを考えながら、ぼくはそっと町の入口へと視線を戻す。行き交うタクシー、森へ向かう背中。そして逆に帰郷する人影。多少目を離したところで、そのどれもが、この短い時間のうちに訪れることはない。ジムチャレンジのシーズン中でもなければ千客万来とはいかないのがこの町だ。
 いつもどおりの静寂が、ただそこにあるだけだった。



 忘れられない出会いがあった。
 不思議な魅力に満たされたこの土地は、けれどどこか故郷の海に似て落ち着いた。肌を撫ぜる感覚も、身を包む匂いも、なにもかもが記憶と重なったりはしないのに、ただこころだけはあのころと同じように凪いでいた。あの日もいまと同じように、緑色に光るおおきなきのこのうえに居座って、ただぷかぷかと跳ねていた。未だ鮮やかに残るその記憶。ぼくのたったひとりの親友は、気まぐれにやってきたこの町で、ちいさなぼくの手を握り、真っ先にぼくの友達になってくれた。
 いまでこそフェアリータイプと縁深いちょっと不思議な町、くらいの認識になっているけれど、昔はもっと根深い恐れがここにはあった。不用意にルミナスメイズの森へ近付くと、愛された子供は隠されてしまうと噂されていたし、それがどういうわけかまったくの虚構でないことをぼくは理解してしまっている。
 そのころは空路があまり整備されておらず、けれど移動手段として自身のポケモンに頼るには、ガラルの提示する様々な条件を達成しなくてはならなかった。陸路を選ばざるをえない状況で町の前に立ちふさがる森は、幻想的な光景でひとびとを魅了するものであると同時に、簡単に旅人を迷わせるおおきな脅威でもあった。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれて道を失ったひとを、その話を、ひとびとが過去のものにできるようになったのは、そう遠い話ではない。またあしたを残して消えた、ぼくの親友がさいごだったのだから。
 誰かが姿を消す理由があいまいなものであるならば、それがなくなった理由もまた同じようにしてあいまいだ。口を噤み、居を移し、あるいはそのいのちの終わりを向かえて、ひとり、またひとりと当時を知るものはなくなってゆく。ただおとぎ話のように残る口伝は、もうすっかりこの町を彩るアクセサリーのひとつになってしまったようだった。
 ただひとり、あの子だけが、いまもぼくと親友の記憶を共有しているのだ。

「こんばんは、ちい」
 丸まった背中がぼくのいるすぐしたに見える。地面に突いたパステルカラーの傘に乗る手には、ぼくらが出会ってからいままでに過ごしてきた時間が刻まれている。
 定位置になった光る傘のうえで、ぼくはちいさな声を返す。煌々とあたりを照らすきのこであったが、その光は熱を発しない。すべすべとした質感は、ぼくの体温によく馴染んでいる。
「おやすみ、ちい。また明日」
 落ち着いた声が、一日の終わりに沈んでいく。短い会話をすませたら、あの子はゆっくりと自分の家へ帰ってゆく。立ち並ぶ家々から次第に灯りは消えてゆき、幻想の夜がやってくる。視界の端でゆらゆらゆれる提灯が、何よりも明るく道を照らす。
 ぼくは、この町に寄り添えているだろうか。

 親愛なるアラベスクタウン、近くぼくの終わりを知る町よ。どうかぼくの願いを叶えておくれ。
 まるで時間の流れから取り残されたようなこの町で、ぼくはきょうもきのうの続きを待っている。


2021.05.25